稀代のアイデアマンにして実践者、型破り湯守のこだわりとは?
西伊豆・松崎町の里山に湧く一軒宿の桜田温泉・山芳園。
温泉通を自認する人なら、この宿のことを知らない人はいないはずだ。
わずか10室しかない小さな宿の、なにがそこまで温泉ファンを惹きつけるのか。
それはひとえに、館主の温泉に対するこだわりにあると言っていい。
銘木を駆使した宿の造りにも注目だが、真骨頂は、源泉をいかにそのまま楽しむことができるか、という館主のこだわりに尽きる。
高温の源泉を適温に冷ますために考案した手作りの源泉冷却装置、そして空気に一度も触れることなく湯船の底から湯を供給するシステム、それを館主は“源泉脈かけ流し”と命名した。
そのこだわりはどこから来たのか?
怒涛のマシンガントークをかいくぐって、その真髄に迫るインタビュー。
吉田 新司 (よしだ しんじ) /1952年 (昭和27年) 3月25日、神奈川県三浦市の裕福な農家の次男として生まれる。地元の追浜高校卒業後、東京農業大学拓殖学科に進む。大学卒業後、アメリカの大学や農場で2年間、主に農業の再開発について学ぶ。帰国後、父親が購入して開墾した西伊豆の山でミカン栽培を手伝い、椎茸栽培や本格的な炭焼き窯を築いて竹炭などを焼く。さらに父親が掘削に成功していた温泉を活かして1980 (昭和55) 年、桜田温泉・山芳園を開業。現在に至る。寿美子夫人、3男の父。現在、旅館業は若夫婦への委譲に努め、本人は山仕事・畑仕事に精を出す日々を送る。
スタートは購入した山のミカン畑開墾から
飯出 吉田さん、何年生まれ?
吉田 1952年 (昭和27年) 3月25日生まれ、今68歳。これ、小学校の通信簿をもらう日なんですよ。
飯出 なるほど。もう老人になっちゃったんですね、とりあえず(笑)。
吉田 なった、なった(笑)。もう年金満額だから。それで身体もボコがきますよ。
飯出 ですよねぇ。え~と、何から聞こうかな(笑)。吉田さん、山芳園の成り立ちから聞きたいんですけど、ここは開業したのは何年?
吉田 1980 (昭和55)年。
飯出 吉田さん、元々は (神奈川県の) 三浦にいたんでしょ?
吉田 そうそう。昭和30~40年代にかけて、東京オリンピックの前の頃、温州ミカンがものすごい良かったんですよ。それで、三浦の野菜ももちろん近郊だから市場へ出荷したりしてそれなりに農家としては良いんだけど、ミカン農家はそれ以上に良かったんですよ。
飯出 へぇ、ミカンが良かったんですね。
吉田 それで、三浦でも親父がミカン植えて、私が小学校低学年の頃からミカンの手入れをして、これが育てば左団扇で暮らせるなんて言われてさ(笑)、毎日こき使われてね。それで、三浦だと広さが限られているから、伊豆の山を買って開墾して、今のミカン山で植えたのが昭和40年頃なんですよ。
飯出 あぁ、あの山はただの雑木の山だったのを買って、ミカンを植えたわけ?
吉田 そうそう、元々炭焼きしてた山だから。温州ミカンと甘夏とニューサマーオレンジを植えたんですよ。で、この辺の人にニューサマーオレンジをあげると、買って食べるのと違うって言うんですよ。
飯出 へぇ。
▲松崎の特徴であるなまこ壁も取り入れた宿の外観。良材をふんだんに使った造りだ。
吉田 後で親父に聞いてわかったんだけど、うちのニューサマーオレンジって神奈川県に「神奈川県柑橘史」っていう厚い本があるんだけど、その本の監修している人がニューサマーオレンジの苗を作って、それを親父にくれたらしいんですよ。その本の中に親父の記事が載ってるんだけどね。
飯出 なるほど。
吉田 なので、そういう関係で植えたから、そのニューサマーオレンジの受粉用に甘夏があって、温州ミカンがありました。
飯出 それが昭和40年代ですね。そのときは、親父さんが開墾やって、吉田さんはタッチしてないんでしょ?
吉田 うん、まだ子供だからね。ただ、山でブルドーザーが開墾してるところは知ってます。その頃、伊豆は三浦より10年遅れてる感じで、車自体がろくに無かったから。私が大学出て昭和50年からアメリカ行って、昭和52年に帰ってきたんだけど、そのときにアメリカからネーブルが日本にきたら日本の温州ミカンは全滅するなと思ったのよ。
飯出 あぁ、ネーブルね。
吉田 で、ネーブルが入ってきても生き残れるのはニューサマーオレンジしかないなと思った。要するに、香りがあって、風味があって、あれはアメリカにはない味だから。グレープフルーツなんかとも全然違うしね。
▲例年、山芳園の前の田んぼには花が植えられ、一足早い春を楽しむことができる。
農大卒業後、アメリカで2年間学ぶ
飯出 吉田さん、アメリカに2年行ったというのは、留学したわけ?
吉田 留学っていうか、大学は半年で、あと1年半はアメリカの農場の現場に。りんご園とオレンジ園と両方ね。
飯出 吉田さん、東京農大の何学部?
吉田 農大の拓植学科。今は国際農業なんとかって科になってるけど。要するに、私も次男坊だから、最初は日本にいるつもりなかったんですよ。それで、本当はアフリカとか行って農業開発とかやろうと思ってたんだけど、大学入ったときに総論で「止むに止まれぬ気持ちがあるか」ってのがあって、はたと考えたら腰掛け感覚というか、その気持ちがないのに気がついたんですよ。
飯出 なるほど(笑)。
吉田 それで、方向転換して、とにかく2~3年外を見てきたいと思ったんだけど、そのときに未開発国の開発とか先進国とかの再開発の中に日本の農業の再開発というのもあって。で、それを取ったんですよ。
飯出 その留学先は、大学?
吉田 大学はコミュニティカレッジとカリフォルニア工科大学、両方行きましたよ。
飯出 へぇ~。
吉田 あとでわかったんだけど、カリフォルニア工科大学が大学ランキングで2~3年前に1位になったんだよね。俺らのときはそんなん全然ないけど。
飯出 そうなんですか。英語は少しはしゃべれるんですか?
吉田 そのときはね(笑)。私の運が良かったのは、たまたまホストファミリーの旦那が中学校の先生で農場のマネージャーやってたり、奥さんは小学校の先生で、その兄弟が弁護士とか、そんな家庭で。他の一緒に行った奴はメキシカンのところでスペイン語とかだったんだけど、私はすべて英語。おまけに1人で配属なので、日本語をしゃべる相手がいなかったから、その点では良かったですよ。
飯出 では、今も英語わかるんでしょ?
吉田 うん。前は日本語をしゃべれない人はみんな私の担当だったの。広美さん (若女将、元国際線のCA) が来るまでね(笑)。
飯出 あ~、なるほど! ははは。
▲若夫婦が初めて会ったのは2012年2月13日。そのときの記念のツーショット。
吉田 単語はどんどん忘れるけど、簡単な単語で意味を組み立てるのはできるからさ。
飯出 それで、2年アメリカに行って、戻ってきて、すぐここに来たんですか?
吉田 25歳ですね。25歳までは遊んでいいことになってたんですよ(笑)。農大在学中に神奈川県の (研修派遣の) 試験受けたら受かってたのに、あとから現役の大学生は資格ないんだよって言われて。しょうがないので1年待って、試験受け直して、それで卒業してから行ったんですよ。県費で行ってるので、お金かからず行きました。
飯出 高校はどこですか?
吉田 神奈川県立追浜高校。今もありますよ。学区の中では一応2番ね(笑)。
▲玄関を入った左手にある大きな囲炉裏のロビー。炭火を囲んでの談笑の場ともなる。
ミカンに見切りをつけて温泉旅館開業
飯出 それで、25歳で戻ってきてどうしたんですか?
吉田 最初は親父にしばらく遊んでろって言われて。フラフラ9月まであちこち行って遊んでたんですよ。ただ、さすがに遊ぶの飽きちゃって(笑)。それで、昭和52年の9月に伊豆に来たんですよ。
飯出 なるほど、遊ぶのに飽きて、ここに来たんですね(笑)。
吉田 当時、年間の売上が100万しかなくて、温州ミカンが1キロ20円だったんですけど、収穫するだけで10円以上かかって運賃5円取られるんですよ、まぁ自分で運んでましたけど。で、ニューサマーオレンジがあると10円余計に買ってくれるとか、そんな状態だから、頭にきて温州ミカンの木を切っちゃって、クヌギやヒノキを植えたんですよ。で、温泉は親父が昭和47年に掘ってあったから。
飯出 あ、そうなんですか。
吉田 私が大学4年の頃には研究室の仲間みんなと、車で風呂入りに来たりとかして。
▲離れ「木の蔵」専用の露天風呂。風呂に浸かりながら、池の鯉が観賞できる趣向。
飯出 なんで、親父さんは、温泉掘ったんですかね?
吉田 隠居所用に(笑)。ここは500坪あるんだけど、家建てるには普通大きく感じるでしょ? でも、出が三浦の百姓だから、家があってその周りに畑があるんですよ。それから見ると、隠居所には500坪は丁度良いって感じるくらいですよ。
飯出 はぁ。
吉田 で、温泉掘ったら出そうだからって、親戚のおじさんと仲間で掘ったんだよね。ミカンがこんな状態だから、最初は湯治場をやるか民宿をやるか、とか。で、当時はもう所帯を持ってたから、子育てしながら2人だけだと無理じゃないですか。人を使わなければいけないから、そうすると旅館にしないと、となって。
飯出 それが、1980 (昭和55) 年?
吉田 そういうこと。1978 (昭和53) 年くらいから木を切って、丸太を寝かせておいて、1979 (昭和54) 年にここの建物とか風呂とか造ったんですよ。最初造ったものは、どこにどう生えていた木かわかりますよ。
飯出 そんな大きな丸太が開墾した山にあったの?
吉田 太い木がある山も買ったんです。木を切って運び出すものやったりして、そういうのは得意になったんですよ。大工の棟梁さんらが木の見方とかを教えてくれました。子供の頃から勉強好きじゃなかったから、大工さんの手伝いとかして。
飯出 目ができてたわけね。
吉田 大学入って最初にアルバイトしたんだけど、ブロック屋、造園屋、鉄骨屋、挙げ句の果てにとび職までやったけど、み~んな地下足袋の仕事(笑)。
飯出 とび職までやったの? じゃあ、高いところ平気なんだ。
吉田 その当時はね。
▲玄関前に設置された飲泉処。チェックインの前に、一口飲んでみてほしい。
最初の紹介者は旅行作家の野口冬人氏
飯出 ここの建物を建てたときは、お父さんは健在だったんでしょ?
吉田 そう。最初の木造の5部屋のときは平屋で、図面を親父が書かせてて。私も女房 (寿美子夫人) もそれを見て、「え、平屋?」って思った。部屋が5つないと旅館の許可が取れないので。
飯出 あぁ、なるほど。
吉田 最初7~8年は5部屋でやって、その後何とか自分がやっていけそうな感じになって、新館を建てたんですよ。
▲専用露天風呂付き客室「川蝉」。ほかに「椛」と離れ「木の蔵」が露天風呂付きだ。
飯出 離れはその後?
吉田 そうですよ。1988 (昭和63) 年に改装を始めてから、8年かけて今の形になったんですよ。だから、飯出さんが最初に来たときにはこんなのなくて、5つの部屋でやってるときよ。
飯出 そうでしたかねぇ。開業は1980 (昭和55) 年の何月?
吉田 9月開業で、営業の許可は7月にもう降りたんですよ。風呂まで出来上がったのが6月だから。
飯出 風呂は今の形?
吉田 ヒノキの風呂は今の形ですよ、脱衣場がちょっと違うだけ。露天風呂は1988 (昭和63) 年に工事始めて1989 (平成元) 年に出来るはずだったんですけど、業者に造らせたら変なもん造ったもんで、水張ってダメだこれと思って。それで仲間の造園屋に電話して「しばらくそっちの仕事休んでこっち来れる?」って聞いたら「1週間くれればなんとかするよ」と。なので、1週間で露天風呂壊しておくからって言って。
▲唐傘天井の大浴場は男女とも檜風呂。浴槽には空気に触れさせずに湯を注入 (男湯)。
飯出 ははは。
吉田 で、全部壊してやり直したの。
飯出 じゃあ、今の露天風呂は、吉田さんと造園屋さんで造ったんですね。
吉田 そうですね。それから山を手伝ってくれた人たちとね。最終的には5~6人でやったのかな。石も割ってちょうど良い感じにしたりとか。それで、春夏秋冬あるから、1シーズン置いたんですよ。厚い石を肌が触れる位置よりは高い位置にしたのは、夏だと暑いってなって、冬だと冷たいってなるのを避けるために計算したんですよ。
飯出 へぇ~。
吉田 傑作だったのが、平見睦子さんていたでしょ?何かの雑誌に3月オープン予定って書いてくれたんですけど、工事で気に入らないって壊したもんで3月にはオープンできなかったから、怒られたね(笑)。
飯出 あの頃、平見さんも伊豆の方によく来てましたからね。
吉田 最初は、他所の人がやってるからって町の人はこの旅館に見向きもしなかったんだけど、ある日、「野口冬人ですけど、取材させてください」って電話があって。それが初めての取材ですよ。その帰った後に、野口冬人ってこの本の人かとわかって、そのまま帰したらまずいなと思って。で、自家製の絞って作ったジュースがあったから、それ一本持って追いかけて、堂ヶ島にいたのでお土産として渡しました(笑)。
飯出 ははは。追いかけたんだ。
吉田 それがマスコミの人との接点ですよ。結局、それで野口さんが、こういうところがあるって書いたんですよね。
飯出 俺、初めて来たの何年くらいですかね?温友社の前の『温泉四季』を作っているときに来たでしょ?
吉田 確かね。私たちは、旅館で修業してないから、どうやったらお客さんが喜んでくれるんだろうというとこから始まったんですよ。そこが他の宿から見て、変わってると思われてたとこなのかな。
飯出 ははは。変わってるって、悪いことじゃないんだけどねぇ。
吉田 ただ、今の時代にはそぐわなくなったり、そういうのを面白がってくれる贔屓筋の人が減ってきちゃったね。年間数10泊、なんて人がいなくなっちゃったわけですよ。
▲かつては混浴だった大露天風呂。いまはこれ以上ない贅沢な貸切露天風呂 (無料)。
画期的な源泉冷却装置はなんとお手製
飯出 あの手製の冷却装置を造ったのは、いつ頃?
吉田 え~と、10数年前ですね。静岡県の温泉の利用許可は、熱量主義なんですよ。当時は、収容が60人とすると毎分60リットルが目安だったんです。時代が変わって静岡県も緩くなって、これだけ欲しいというと許可が出るようになったり、冷まして使うのも理解されるようになった。前は、水を入れてその温度にして使うというのがあったからね。今も熱量主義ですが、ただ湯口70度から50度にしたときに、どうやって20度落とすんだっていうのは言われないんですよ。
飯出 あぁ、言われないのね。
吉田 源泉かけ流しにして、源泉を20度下げたものを持っていくにはこれだけの量が必要です、っていう形でOKになってきたんですよ。
▲こだわりの館主の面目躍如といえば、やはりこの手作りの源泉冷却装置が一番。
飯出 へぇ。吉田さん、あの冷却装置を造ろうと思ったのは、どうしてなんですか?
吉田 最初は、単純に露天風呂がでかいので、あそこをお湯と水入れると水道代がバカにならないほどかかるでしょ。それを節約するのにはどうしたらいいか、と考えたわけ。最初はお湯と水、半分ずつの割合にしたんだけど。次に前日に熱いお湯を風呂に貯めておいて、朝になって適温にするという方法を試してみたら、お客さんから朝の湯のほうが柔らかくて気持ちが良いと言われて。自分でもそう思ったしね。
飯出 なるほど。
吉田 休みの日に源泉60度をドバッと入れて、次の日までに適温に冷ますというのをやってたら、その頃、野口悦男さんが「源泉かけ流し」を言い出して。で、しばらく、週1回源泉入れて冷ますっていうのをやってみたんですよ。
飯出 へぇ。
吉田 そしたら、源泉だけのときは、水を入れたときよりぬるぬるするヌマ (ヌメリ) が生えにくいというのがわかって。温泉はバクテリアの餌になる有機質がないから。
飯出 あのヌメリを、ヌマっていうんですね(笑)。
吉田 うちに泊まりに来る全国の温泉入っている温泉療法医の人と、温泉を水で割ったのと、銅管で冷やした温泉を入り比べたりもしましたよ。
飯出 全然違う?
吉田 半端なく違いますよ。二人でびっくりしたんですよ。それで、温泉のオーソリティの平野さん (平野富雄氏、現「日本源泉湯宿を守る会」名誉会長) と、色々実験してみたわけ。最初、源泉を空気に触れさせて冷まして入れる方法と、熱交換でやる方法とを比較。熱交換は1対1だけど、空気でやるのは冷めるんだけど酸化が激しい。それで、熱交換しながら周りの熱をより多く奪うやり方はないかと試行錯誤して、(湯を通す管に) 霧を吹きかけて気化させて、気化熱で冷ますという方法にたどり着いたのよ。そうすると、1対1の熱交換よりも、気化熱を利用する方法のほうが300か500倍の効率で温度を下げられることがわかったわけ。
飯出 なるほど。深いですねぇ。
吉田 それで、あのシステムになったんですよ。霧の量を調整すれば、春夏秋冬、同じ温泉を入れることが可能になりました。その代わり、風があったり、湿度や温度の違いの微調整がものすごい大変! お風呂の温度が決まってるから。
▲女湯の大浴場は檜風呂が1つと、女湯だけにしかない「室岩風呂」(写真) がある。
飯出 その辺の技術は、まーくん (若旦那の吉田匡宏さんのこと) に伝授したの?
吉田 それは、マサヒロもわかってますよ。一時、やってたから。
飯出 そうですか。でもまぁ、桜田温泉が強いのは湧出量が多いってことですよね。今、毎分何リットル?
吉田 夜は150リットルかそんなもんじゃないですか。入れ替えのときは300リットルくらい使うかもね。許可は400リットル以上取ってある、温泉スタンドの分もあるので。
飯出 でも、もっと出るんでしょ?
吉田 500リットルくらいかな。
飯出 一軒で500リットルあるんだから、すごいですよね。
吉田 このお湯は、温度、量、成分はお客さんにとっても良いけど、管理する人間にとってもギリギリOKなんですよ。うちは75度のお湯だから、温水用のポンプで大丈夫なんですよ。ステンレスは使うけど、塩分がないから錆びにくいので、銅管や真鍮も使えるんですね。これが硫黄泉だったらアウトです。おまけに掘削自噴だから、余分なポンプがいらない(笑)。
飯出 恵まれてますよねー。
吉田 源泉が75度なので、レジオネラ菌も全部死滅するから。そういう心配もゼロです。
▲こちらも無料で利用できる家族風呂。ファミリーでも楽々入れる広々とした造り。
今は一歩引いて若夫婦に実権を委譲
飯出 吉田さん、子どもは何人?
吉田 息子3人。長男は匡宏で、3番目は一時ここの調理をしてました。
飯出 まだ、まーくんに家督は譲ってないんでしょ?
吉田 まだですね。(館主になると) 役員ばっか回ってくるから、そういうのやってない方が色々良かったりするんですよ。
飯出 ここは会社組織にしてるの?
吉田 最初から株式会社です。やはり個人ではこれだけの規模でやるとなると、金融機関は相手にしてくれないですよ。法人じゃないと難しいです。
飯出 吉田さん、腰と膝がちょっと心配だけど。
吉田 まぁね。あとは営業上の心配ですよ。伊豆半島が落ち込んでくると、お客さんが来ても対応する人がいないとか。
飯出 それはどこもそう。部屋はあるんだけど客が取れないという。
吉田 無借金経営だったらそれでいけるけど、そうじゃないと追いついていかなくなりますね。
飯出 でも、まーくんの料理、良くなったね。すごく。
吉田 そうだね。評判良いですよ。
▲料理の楽しみはやはり伊豆の海の幸。下田と田子の漁港に揚がった地魚も並ぶ。
飯出 まーくんは最初から調理師の勉強をしていたわけじゃないでしょ?だから、一時、心配したんですよ。それで無理矢理、花ちゃん (松本・美ヶ原温泉「旅館すぎもと」の花岡貞夫氏のこと) とこに連れて行って刺激を与えたりしたんだけど、すごく良くなった。安心した(笑)。そりゃ無理だよね、いきなりやれって言ってもね。
吉田 まぁ、確かにね。
飯出 親父さんから見て、若夫婦 (匡宏・広美夫妻) はどうですか?
吉田 夫婦としてのあり方とか、私らとは時代が全然違うからね。だから良いとか悪いとか、判断の基準が違うんだよ。まぁ、それでうまくいってれば、最終的にはそれはそれで良いんですよ(笑)。
飯出 良くなると思いますよ。
吉田 代が変われば、やり方も何も変わるけど、その中で良いものは残して、直すところは直すような形でいけば続くんだろうけど。ネットとかSNSとかを活用する知恵は自分にはないからね。
飯出 それはしょうがないですよ。親父はアナログ人間だし(笑)。
吉田 だから、最近になって、広美さんがホームページや米のチラシにしてもそうだけど、表現してアピールしてくれると反応が良いよね。俺らの理解を越してる(笑)。
飯出 それは、彼らの時代は別だから。情報伝達の方法から何からして。
▲2代揃って玄関前で。若旦那は187cm、若女将は171cm。よく育ったもんだわ(笑)。
吉田 なので、そういうのはお任せして、合鴨農法の米とか、ニューサマーオレンジとか椎茸とか、そういう素材をバッチリ固める。それが俺らの世代の仕事。それを展開して誘客に結びつけるのは、若い者じゃないとね。
飯出 分業で良いんですよ。
吉田 最近は、裏に引っ込んでね。ただ、問題は畑やるにしても人がいないから、中の仕事が増えちゃって、田んぼとかやる時間がなくなって。週に1日しか休みがないからね、2~3日あれば良いけど。
飯出 畑仕事は休みにやる感じですか?
吉田 そうだよ(笑)。だから休館日は19時近くまでできるのよ。通常は15時半に終わって合鴨を収容して、風呂入って16時半のミーティングに間に合うようにしないといけないからさ。
飯出 吉田さんは畑が好きなんですね。リフレッシュの場所でもあるのね。
吉田 本当は夕方まで畑をやらしてもらえればなぁ。でも、それで、今と同じ仕事しろっていっても、身体が持たないからやらないけど(笑)。
飯出 まぁ、身体のケアして、好きな山や田んぼの仕事をできるだけ長くやって、美味しいニューサマーオレンジや椎茸や合鴨農法のお米を作ってくださいな。それを産直で販売するのは若夫婦がやってくれますよ(笑)。
※その後、若夫婦は本格的に取り組むことを決意。2020年5月1日に桜田温泉オンラインショップを立ち上げ、自家栽培のお米やニューサマーオレンジなどの産直通販を開始している。
…あとがき…
山芳園を初めて訪ねたのは、1991年秋。
第3号にして最終号になってしまった『温泉四季』の取材で伊豆半島中の温泉をめぐったときで、もちろん詳しい開湯譚など聴く余裕はなかった。
次に伺ったのは、尊敬する先輩の吉田良正氏 (故人) 率いる勉強会「吉田会」にオブザーバーとして呼ばれたときで、それでもいまから15年ほども前の話である。
先輩いわく「旅館のオヤジとは思えない言いたい放題の御仁で、大風呂敷を広げてるなんて陰口をたたく人もいるんだけど、実は有言実行のホンモノなんだよ。それを吉田会の面々に見てもらいたいんだ」。先輩はさすがの見識だった、と今にして思う。
その後、図らずも私自身が大きな関りを持つことになった。
息子に嫁さんを紹介する役を担うことになったからだ。
2011年11月にあったある温泉好きの集いで、前の席に座った国際線のCAだった彼女の「私、CAのほかにもう1つ、温泉旅館の若女将になるのが夢だったんです!」という言葉がきっかけだった。
翌年2月に彼女を山芳園に案内して息子に引き合わせると、あとはとんとん拍子で、1年もたたないうちにゴールイン!
縁とは実に不思議なものである。
そんなこともあって、私にとって、山芳園は特別な宿になった。
で、いつものことながら、館主のマシンガントークに翻弄されることになる。
このインタビューも名ばかりで、合いの手を入れるだけのような内容になったのも、いつものパターンと思っていただきたい(笑)。
(公開日:2020年6月6日)
◆カテゴリー:湯守インタビュー