箱根を代表する老舗宿を守り続ける4代目当主の素顔とは?
箱根温泉郷の玄関口箱根湯本温泉へと続く駅前通りのにぎわいからわずか1kmほどしか離れていないが、次の温泉地塔之沢温泉の雰囲気は一変する。
両側から山肌が迫るV字谷を早川が切り裂くように流れる、まさに深山幽谷の趣だ。
この狭隘な土地に建つ数軒の温泉宿のうち、箱根を代表する国の登録有形文化財の老舗宿が3軒も残っているのが、この温泉の歴史を如実に物語っている。
温泉入口にあたる早川左岸に建っているのが、そのうちの1軒、福住樓である。
国道1号に面した堂々たる唐破風の玄関がひときわ目を引く。
この宿を率いる4代目は大学院までキリスト教について学んだという学究肌。
その悠揚迫らぬ大人 (たいじん) の風格に気圧されつつ、湯守の本音に迫ったインタビュー。
澤村 恭正 (さわむら やすまさ) /1941 (昭和16) 年2月25日、塔之沢温泉「福住樓」の長男として生まれる。地元近くの小田原高校卒業後、立教大学文学部キリスト教学科、同大学院文学部で組織神学科を専攻する。祖父が哲学科、父が仏教学科なので、自分はキリスト教をというのが専攻の理由なんだとか。卒業後にはすぐに帰郷して家業に入る。夫人はばりばりの現役の女将で、現在も宿の陣頭指揮をとる。2男2女の父。現在、相洋中学校・高等学校を運営する学校法人明徳学園の理事、「神奈川県登録有形文化財所有者の会」の理事を務める。
1890年創業、初代は柳橋芸者!?
飯出 福住樓の創業はいつですか?
澤村 1890 (明治23) 年ですね。
飯出 創業したのは、この場所?
澤村 いや、もう少し上手にありましたね。
飯出 そうでした。確か、水害か何かで…。
澤村 えぇ。元々は、湯本に福住さんってありますよね。そこのご兄弟かが塔之沢福住樓をやってたんですね。ご兄弟かどうか、正確にはわかりませんが。
飯出 親戚の方がされてたんですね。
澤村 そこを澤村が買い取りまして、始めたのが1890 (明治23) 年なんです。その20年後の1910 (明治43) 年8月に大水がありまして、それで流されてしまったんですね。そこで、全部失ったようです。
飯出 なるほど。
澤村 1890 (明治23) 年には玉之湯旅館という宿を一の湯さんと共同経営していたようなんですが、のちに私どもの先祖の澤村高俊という人が購入したんですね。澤村は細川藩の江戸屋敷留守居役で、正室はその当時熊本にいたわけですが、病身だったようです。それで、御維新を迎えた頃、澤村が柳橋に行ったときに、実家のろうそく屋がダメになって柳橋に出ていた長谷川まつという女性を見初めて、側室として迎えたらしいんですね。
飯出 ほう。
澤村 で、その側室に、大水で流される前、上の旅館を任せたらしいんです。なので、長谷川まつが初代になりますね。
飯出 昔は結構、公に愛人とかいましたよね。
澤村 1910 (明治43) 年くらいまでは側室制度というのがあったようですね。ですので、長谷川まつは正式に側室だったようです。
飯出 あ、そうなんですね。側室とか愛人にお店や旅館を持たせるというのは、結構ありますもんね。
澤村 でも、箱根では武士階級の人がやってる旅館というのは、かつて底倉温泉にあった蔦屋とうちだけという記録があるようですね。
飯出 へぇ。
澤村 ですので、旅館として古いのは湯本の福住さんとか環翠楼、一の湯さんとか昔からのお宿です。考えようによっては、当館は今でこそ箱根では古い温泉宿になってますけど、1890 (明治23) 年当時はどっちかっていうと新参者ですよね。
▲国道1号に面した唐破風の玄関の偉容。老舗の風格が漂う、国の登録有形文化財の宿だ。
飯出 なるほど。上のときも (館名は) 福住樓だったんですか?
澤村 上のときも福住樓です。それで、流されてしまい、長谷川まつが半狂乱になって東京に帰っちゃったんです。ただ、長谷川まつは箱根が夏しかお客さんが来ないのを、秋から冬にかけて誘客するのに、東京で宣伝活動を精力的にしたらしいんですよ。元柳橋芸者ですし、気っ風もよく、女傑というか名物女将といった存在だったんでしょうね。
飯出 宣伝上手だったんですね。
澤村 で、(その宣伝活動が奏功して) 秋から冬にお客さんを誘客したもので、地元の人に「辞めないで続けてくれ」と言われたそうです。それなら一の湯と共同所有していた玉之湯旅館の権利を譲ってくれるなら再開しましょう、と。ですので、8月に流されて、その年の大晦日には再開したと聞いております。
飯出 なるほど。長谷川まつさんは会長さんからすると?
澤村 曾祖母になりますね。血縁あります。
飯出 長谷川まつさんは、澤村を名乗ってなかったんですか?
澤村 そうみたいですね。側室だったからかわかりませんけど。なので、お墓は一緒で、澤村高俊の横に長谷川まつが並んでいます。
飯出 そのお子さんがお祖父さん?
澤村 えぇ。次男で正吉と言います。
飯出 で、会長さんが4代目なんですね。息子 (吉之さん) さんが5 代目で。
澤村 そうなんです。会社組織じゃないもので、とりあえず息子の名刺には5代目と付けたんですよ。
▲玄関から客室へと導く磨き抜かれた廊下。日本の宿ならではの繊細な造作にも注目。
大学ではキリスト教を専攻
飯出 会長は、ここで生まれたんですか?
澤村 えぇ、ここで生まれました。4人兄弟の長男です。
飯出 すんなり後を継いだ感じではあるんですか?
澤村 そうですね。私は大学、大学院と行って、どこへも就職せず戻ってきましたから。
飯出 大学はどちらですか?
澤村 大学、大学院ともに立教大学です。いきなり戻ってきて何もわからないもんで、私の父が割と早く死んでしまい、34歳のときに継ぎました。
▲客室「竹五」。客室はすべて意匠が異なり、どの部屋の造作も匠の技が発揮されている。
飯出 大学院まで行ったんですか? 教育には理解があるんですね。
澤村 祖父は、(東京帝大の) 哲学科を出て、のちにどこかの学校で先生をやっていて、ここに戻されたらしいです。昔、英語を教えていたようですね。
飯出 へぇ。
澤村 そのことは『温泉』って雑誌に少し書きましたけどね。で、父は東洋大学の仏教の元であるインド哲学をやって、その後上智の経済に行ったんです。大学に2つ行ったんですよ。
飯出 2つ行ったんですか? ほとんど大学で遊んで、それで戻ってきたんですね(笑)。
澤村 はい(笑)。それで、私は哲学科に行こうかと思って、東洋大学と立教大学を受けたんですけど、みんなに立教大学を勧められて、そちらに行きました。それで、弁証法でいうと、哲学、仏教ときたら、次はキリスト教でちょうどいいかと思って、そんな単純な理由でキリスト教を勉強したんですよ。大学は文学部キリスト教学科、大学院では文学部の組織神学科を専攻しました。
飯出 へぇ。
澤村 なので、友だちはバラエティに富んでますよ。
飯出 それは良いことですよね。旅館だけだと、世界は狭まっちゃいますもんね。
澤村 まぁ、どうせ旅館継ぐなら好きなことやらせてくれよって言って、やっただけのことです(笑)。
飯出 ここだと高校は小田原高校ですか?
澤村 そうです。
飯出 ちなみに何年生まれですか?
澤村 1941 (昭和16) 年です。78歳ですから、もうやれやれって歳じゃないかと思いますけど(笑)。
▲時間の都合がつけば、ご主人の案内&解説付きの館内視察の希望にも応じてくれる。
コロナ前は宿泊客の8割が外国人客!?
飯出 ここは、元々は川の中洲だったって聞いたんですけど、そうなんですか?
澤村 いえ、中洲ってわけではないんですけど、この前には川があるんですね。上に橋があって、こっち側にも橋があって道路が通ってるので中洲のように見えるんですね。
飯出 あ、はみ出して中洲のような感じに見えるってことなんですね。
澤村 中洲のような感じで、山を背負ってませんし、割と地盤が岩盤で強いらしいんです。ですので、幸い関東大震災でも倒壊せずに済んだんですね。
▲早川と国道1号に挟まれた敷地に建つ福住樓。箱根湯本から行くと最初に現れる宿だ。
飯出 この建物は何年築ですか?
澤村 玉之湯旅館のときから考えると正確にはわからないんですけど、明治20~30年 (1887~97年) に建てられたもののようですね。
飯出 確定した感じではわかってないんですね? 国の登録有形文化財になっていますが、これは建物全体が登録されてるんですか?
澤村 全部です。あと茶室も。建物は何年かわかりませんが、創業からは来年で130年ですね。ちょうど帝国ホテルと同じになります。
飯出 あ、そうなんですね。
澤村 元々、玉之湯旅館の時代は擬洋風建築で建てられていたようなんです。再開するときに唐破風なんか付けたようです。
飯出 まぁ、多分そうでしょうね。湯本の福住も洋館風に造ってますもんね。その頃のハイカラの気風が出てるんですよね。
澤村 玄関脇に張られているタイルは文化財の要素の一つになってますね。今、ちょっと出来ないっていうね。
▲レトロな雰囲気に包まれたBAR「帰郷」。グループでの二次会などに利用されている。
飯出 なんか聞くところによると、3年前にすでに宿泊客の4割は外国人のお客さんなんだとか?
澤村 今、8割が外国人ですね。
飯出 8割ですか! どの辺のお客さんが多いんですか?
澤村 多いのは、アメリカ、オーストラリア、欧米系が多いです。半分は欧米系ですね。残りの3割が中国の方、東南アジアって感じでしょうかね。
飯出 なるほど。急に外国人のお客さんが増えるようになったのはいつ頃ですか?
澤村 多分、2002 (平成14) 年の頃ですね。最初はアメリカ大使館の方が来られたんじゃないかと思うんですけど、その口コミがあったかわかりませんけどCNNが知らない間に極秘で2日間くらい泊まってて、全部いろいろ撮って、向こうのトラベルサイトに出したらしいんですよね。
飯出 なるほど。
澤村 あと、私が昭和44 (1969) 年頃、ハワイに行ったときに飛行機で日本の紹介が出たときにうちの丸風呂が出てたんですよ。ですので、丸風呂が割と有名ですね。
飯出 そうですよね。丸風呂は、箱根を代表するポスターにもよくなってますしね。
澤村 そういうことだと思うんですよね。私どもでは一切宣伝はしてませんので。
飯出 あの丸風呂っていうのは、会長が幼い頃からあるんですか?
澤村 最初からありました。ただ、今ちょっと困ってるんですけど、あれは赤松をくり抜いて組んでるんですよね。大正から昭和の初めに中がダメになっちゃって、もう木が取れないんで桶のように直したこともあるらしいんですけど、戦後に赤松が見つかったんで、昭和37年 (1962) 頃に元のように直して。今もちょっと直したいんですけど、赤松がないんですよね。
飯出 お風呂の中の素材は赤松なんですね。
澤村 中は赤松で、外はヒノキなんですけど、天井は杉を使わざるをえないですね。
▲箱根のポスターや小田急のPRにもしばしば登場する名物「丸風呂」。湯船は2つある。
日本式で通す外国人客への対応
飯出 外国のお客さんがわっと増えたときの対応は、あたふたしたものだったんですか?
澤村 いや、逆に日本のお客さんと同じようにしてましたからね。英語しゃべれなくて日本語対応してたんですけど、そうすると従業員が英語対応できる人が集まってくるんですよね。
飯出 ほう。
澤村 それとみんな慣れてくるんですよ。旅行業で使う言葉は決まってきますから。出来ない人も段々慣れてきて。
飯出 困ったことは特にはなかったんですか?
澤村 一番大変だったのは食事ですね。ベジタリアンとかグルテンフリーとか、そういう対応は板場が大変です。
飯出 こちらは今でもお食事はお部屋に運んでるんですか?
澤村 はい。だから人件費が大変なんです。しかも建物の構造が3階ですから。
飯出 ですよねぇ。
澤村 普通は食事処を造ったりするんでしょうけど、息子が部屋出しにこだわってて、変えないんですよね。
▲これぞ正しい日本の朝食といった献立。朝風呂のあと、部屋でゆっくりと味わう贅沢。
飯出 外国のお客さんは、椅子とテーブルで食事をしたいって要望はないですか?
澤村 たまにはありますけど、でも普通にお座敷で出してます。
飯出 まぁ、それが面白いんでしょうね。
澤村 お風呂にシャワーを付けたり、トイレを洋式化したりはしましたけどね。ただ、お部屋に水回りは原則付けてないです、日本のお部屋ではなくなってしまいますから。
飯出 今、外国のお客さんは、こちらへの予約は何を使ってるんですか?
澤村 ほとんどネットです。ですから、半年から1年前くらいに予約されちゃうんで、日本人のお客さんが入る余地がなくなってきちゃった。なので、お正月だけ3日間はネットの予約は出さないようにしました。
飯出 あ、そうなんですか。
澤村 日本人のお馴染みさん含めて来ていただくような形にしてます。
飯出 そしたら、箱根の中でも外国人のお客さんが占める割合はトップクラスですよね?
澤村 かもしれませんね。
飯出 それは、どういうところが外国人の方に好かれてる感じなんですかね?
澤村 やはり、純和風を貫いてきたのが、不便かもしれませんけど、良かったのかなと。
飯出 食事は外国人の方も同じなんですよね?
澤村 ベジタリアンやグルテンフリーは別にしていますが、あとは同様です。朝食だけ選べるようにしてます。和食ダメって方は夕食なしで、どこか外で食べてきて泊まっていただくようにしています。
飯出 私が前にお邪魔したときは、夕食休憩も受け入れてましたよね?
澤村 はい、ただ、今はやってないですね。もう、外国のお客さんが多すぎて対応できなくなっちゃったんですね。
▲客室から見下ろす早川は美しく、奔流の片鱗さえうかがわせる。飽きさせない眺めだ。
錚々たる文豪に愛された宿
飯出 話変わるんですけど、こちらのお宿は文豪が定宿にされてましたよね? 最もご記憶に残っていらっしゃる作家はどなたですか?
澤村 私は、大佛 (次郎) 先生とか里見 (弴) 先生のお宅にも伺ったことありますし、私が小学校のときに母に連れられて川端 (康成) 先生のところに行ったくらいですね。大佛先生は、頻繁に来られて、うちで執筆されてました。
飯出 川端さんのお部屋がありましたよね?
澤村 あります。祖母の代だと、吉川英治先生とか来られていたし、父の時代は幸田露伴、初代のときは島崎藤村とかですね。
飯出 明治の文豪ですね。
▲川端康成愛用の客室「桐参」。外の景観も望まず、早川の瀬音も届かない静かさを好んだ。
澤村 川端先生なんかは、うちでじっくり執筆というよりは、鎌倉から近いですから着流しでぶらっと来て、新聞社や雑誌社の随筆的なものをちょこちょこ書くような形が多かったようです。母はその部屋が使えなくて、お断りしたこともあったそうです。来られると夜中書かれるんで、係の女中さんが大変だったと(笑)。
飯出 必ず、あのお部屋だったんですか?
澤村 えぇ。音が嫌いなんです。川沿いの方が普通の人は良いはずなんですけど、あそこの部屋は静かだから。あの部屋で執筆されて朝の寝る前に原稿を外に出しておくと、編集者が取りに来るという形だったようです。
飯出 はっきり言って、ここのお宿の中では上等なお部屋って感じではないですよね?
澤村 う~ん、ただ造りが凝ってるんですよね。真行草ってあるんですけど、環翠楼さんは真で書院風に造ってあるから政治家が多いんですよ。ここはそうではなくて、真行草バランスとって造ってあるんで、部屋自体にも茶室風を取り入れているので柔らかみが出てるんですね。
飯出 なるほどね。
▲粋を凝らした造作に興味は尽きない。これは福を呼ぶという「蝙蝠」の細工。
澤村 まるっきり草だけだと民家的になっちゃうけど、ある程度格式保ちながら真行草で造っているので、好まれた理由じゃないかと。
飯出 箱根の老舗のお宿は、業界的に住み分けができているような感じですよね?
澤村 そうなんです。環翠楼は政治家系で、湯本の萬翠楼福住はお公家様、一の湯は庶民が多かったようです。この宿は経済人、文筆家、芸術家、芸能人が好んでいたようですね。
▲外の景観が望めない客室に施された竹のアートの富士山。欄間の造作にも目を奪われる。
奥さんが陣頭指揮、実務は息子2人
飯出 会長の奥さんはどこから来られたんですか?
澤村 日吉です。サラリーマンの娘です。
飯出 お子さんは?
澤村 長男が吉之 (よしゆきさん)、次男が光士 (こうじさん) で、全部で4人。女女男男です。
飯出 5代目の吉之さんと光士さんがお宿を一緒にやってらっしゃるんですよね?
澤村 そうです。
飯出 奥さん (良子=りょうこさん) はおいくつですか?
澤村 7つ下で、今年71歳ですね。宿の陣頭指揮とってますよ。
飯出 7つ下なんですか! じゃあ、まだ頑張ってもらわないと(笑)。でも、これだけの宿の規模で会社組織にしていないのは珍しいんじゃないですか?
澤村 そうですね。親父のときから、祖父が死んだときにそうしようと思ってたみたいなんですけど。今1円からでも会社できますからねぇ。最初から会社組織にすれば簡単なんですけど、途中から会社にするとなるとなかなか難しいですね。
飯出 会長はまだ、事実上は社長なんですね、世帯主というか。
澤村 そうですね。まだ、気持ちが軽くなりません(笑)。個人が良いところもあるし、一長一短ですね。
▲玄関前で、4代目澤村恭正氏と5代目吉之氏。老舗旅館のバトン継承も万全である。
課題は建物の修繕と人手かな
飯出 このお宿をやられてきて、一番大変なことはどういうところですか?
澤村 まぁ、古くなっちゃったから修繕関係。建物の維持管理と人の問題でしょうね。
飯出 人手の問題は深刻ですねぇ。あちこちの旅館の方と話をしても、人手がないから部屋は空いてても泊められない、ってお宿が結構ありますよ。で、ここのところ、人手の問題で休業、廃業が多いんですけど、箱根はそんなことないんですかね?
澤村 いやぁ、新しくできたホテルでも人手が集まらないって話は聞きますよ。ですから、どんどん人件費は上がっていくし、みんなどこまでやっていけるかですよね。
飯出 昨年の台風19号で箱根町は大変でしたよね。国道138号の通行止期間も長かったですよね。国道138号っていったら幹線道路なのに、なかなか復旧しなかったですね。
澤村 登山電車も早く復旧してくれないと、上の強羅とかあちらの方は大変ですよね。代行バスは出ていますけどね。
飯出 箱根登山鉄道は、相当な被害なんですね?
澤村 こんな長いことはないですよ。復旧の見込みはまだ立たないんですよね。芦ノ湖が溢れたことと、とんでもないところから水が出てきて登山電車の地盤をすくっちゃったんですね。
(※その後、箱根登山鉄道は2020年7月23日に9ヶ月ぶりに全面復旧した。)
飯出 なるほどね。まぁ、ここ数年、箱根も自然災害にやられてますよね。大涌谷の噴火から始まって…。私、箱根のハイキングコースの記事も結構書いてるんですけど、書いているハイキングコースの何本かは通行できなくなっちゃってますからね。
澤村 ちょっとロープウェイがダメで、次は電車がダメで、連鎖が悪いですね。
飯出 やはりゴールデンコースの中継ができないと、影響が大きいですね。年初めの一大イベントといえば箱根駅伝ですけど、箱根駅伝のときは大変なもんなんですか? ここ、どこかから見えるでしょ?
澤村 うちの前にテレビカメラが1台置かれて、必ずここの前を映すんですね。
飯出 このお宿に泊まっていても、走ってくるのは見えるでしょ? この辺、わーっと人が並ぶわけでしょ?
澤村 見えますよ、人が並びます(笑)。
▲宿泊客は無料で利用できる家族風呂も1つあり、ゆったりとした広めの造りで好評。
飯出 お宿としては年中無休ですか?
澤村 いや、いま休み取らないと働き方改革でダメですね。12月も2日、1月も4日休みます。
飯出 もう、この日は休むことにするって決めちゃうんですか?
澤村 そうです。それでないと休めないです。今は早くやらないとネットのお客さんが予約しちゃうので。従業員はローテーションで回しているんですが、やはり数日休まないと有休まではこなせないですね。
飯出 まぁ、大変と思いますけど、こういう日本の旅館はもう今となっては造れないので、頑張って欲しいですけど(笑)。
澤村 そうですね、どこまで頑張れるかですね。
飯出 福住樓さんは後継の問題が心配いらないですからね。今、どこも後継の問題が本当に深刻ですから、その点だけでも安心ですね。なんか役みたいなのはやってます?
澤村 旅館関係は、みんな吉之が組合の理事やったり、観光協会の副会長やってたりしていますが、私はもう、そういうのはないです。
飯出 全部、卒業ですか?
澤村 はい(笑)。外で、相洋学園中高学校っていうのがあるんですけど、一応そこの理事やってるとか、神奈川県で「登録有形文化財所有者の会」っていうのがあり、そこの理事とかをやったりはしてます。
飯出 名誉職からは、簡単には解放されないってことですかね(笑)。
…あとがき…
だいぶ前に、ある雑誌の取材でお邪魔したことがあるが、記憶はおぼろだった。
ゆっくり宿泊してみたいと思い、2019年の恒例の年末家族旅行にこの宿を選んだ。
もちろん、湯守インタビューも目的の1つとして。
じっくりと建物を見学させていただいたが、それは慌ただしい雑誌の取材中では味わえない感動だった。
やはり日本建築は素晴らしい。
そして、もう1つ感嘆したのは、老舗旅館の跡継ぎならではの育ちの良さというものだった。
4代目の澤村恭正氏は家業とは無関係と思われるキリスト教を大学院まで学んだという話には驚いたが、祖父が哲学、父が仏教を学んだとうかがい、さらに驚いた。家系はよっぽどの学究肌なのか、それとも変わり者に組するのか(笑)。
しかし、その悠揚迫らぬ応対ぶりは、インテリジェンスを感得させるには充分。
老舗を守り続ける大人 (たいじん) の風格が漂っていた。
育ちの良さ、とはたぶんこういうものに違いない。
今年はコロナ禍で外国人客がほとんど来日出来ない状況なので、被害は甚大。
ただし、そのぶん日本人客が予約をとりやすくなっていると言えそうだ。
(公開日:2020年9月6日)
◆カテゴリー:湯守インタビュー