支笏湖畔に展開する丸駒温泉リゾートを牽引するリーダーの思いとは?
日本最北の不凍湖にして、田沢湖に次ぐ日本第2位の深さを誇る支笏湖。
その北岸、恵庭岳の麓にあるのが一軒宿の丸駒温泉だ。
秘湯の環境にあるが、施設は近代的なリゾートホテル風で、このエリアではもっとも整った宿泊施設となっている。
この創業100年を超えた人気の温泉宿を率いる4代目に、苦闘の歴史と今後の展望、コロナ禍で改めて再確認したという支笏湖の魅力を探るインタビュー。
佐々木 義朗 (ささき よしろう) /1963 (昭和38) 年1月11日、丸駒温泉旅館の4代目となる長男に生まれる。地元の小学校、千歳市内の中学校、白老にあった北海道日本大学高等学校を経て、国士舘大学政経学部に進学。中学生の頃から大学まで野球に熱中。卒業後は日本航空のチェーン店のホテル部門である沖縄のオクマリゾートに3年、千歳に3年勤務したあと、帰郷して家業に就く。2015 (平成27) 年に年に4代目を継承。現在は経営を離れ、館主として以前と同様に活動中。国立公園支笏湖運営協議会会長、「日本秘湯を守る会」北海道支部長なども務めている (2022年1月現在)。
曾祖父が1915(大正4)年に開業
飯出 まず歴史のことを伺いますけど、ここは1915 (大正4) 年に開業されたということですけど、そのときは曾お祖父さんが初代になりますかね?
佐々木 はい、私から見て曾祖父になりますね。
飯出 その曾お祖父さんが王子製紙の発電所建設に携わっていて、たまたまこちらに渡って温泉を発見したんですか?
佐々木 元々、土木技師で北海道に開拓者として来て、最終的には最後の仕事になったんですけど、王子製紙の第一発電所の請け負いをして、2~3社の組200人くらいを束ねていたと聞いてます。それで、それが終わって故郷の福島に帰ろうというときに、座骨神経痛を患って。今、私もそれになってるんですけど(笑)。
飯出 えぇ、そうなんですか。
佐々木 当時一緒に働いていたアイヌの人から「恵庭岳の麓に温泉が出るよ」と聞いて、ここに船で渡って来たら温泉が湧いたと。12月30日に来たんですよね、ですから温泉が湧くところは雪が解けていて、ここだということで。
飯出 それは、今の岩風呂のことですか?
▲丸駒温泉のルーツ、湖岸すれすれにある足元湧出の天然岩風呂が人気。写真は男湯。
佐々木 あの辺です。そこの一帯が解けていて掘ったら温泉が出て、それほど深く掘らなくても源泉が出たということで、水もあるし魚も獲れるし、ここに住もうと。当時から支笏湖にはヒメマスが移殖されてましたし、鳥がいたり、鴨がいたり。要は鉄砲持っていれば何でも獲れますので、鹿も熊もウサギも。こんなに獲れて温泉もある、こんな素晴らしいところはないということで住み着いて。温泉で座骨神経痛を治して、宿をやることで、この温泉の効能を広く伝えたいという思いで始めたんですよね。
飯出 へぇ。
佐々木 当時は、米とかお酒などのモノを持っていればタダで泊めたりとか、そんなレベルだったと思うんですけど。ここに住んでいたら、お金使わないと思うので。
飯出 そのときは、奥さん (トヨさん) もこちらにいたんですか?
佐々木 開拓者で来たときから一緒です。ひょっとしたら夫婦で逃げてきたのかもしれないです。
▲館内の廊下の壁には丸駒温泉100年の歴史を伝える写真やパネルが展示されている。
飯出 それまでどこにいらっしゃったんですか?
佐々木 福島県の富岡町という、いま原発があるところです。元々、2人に子供ができなくて、わからないんですけど、昔は家を出て行かないといけないような引け目を感じて出てきたんじゃないですかね。
飯出 ご長男じゃないんですかね?
佐々木 長男なんです。ただ、まぁ、その辺はよくわからないです。
飯出 で、もっとも丸駒温泉旅館の名を知らしめたのは、2代目のお祖母ちゃん (ヨシヱさん) ですよね。実は私、お会いしたことあるんですよ。
▲「丸駒のおばあちゃん」と呼び親しまれた二代目のヨシエさん(佐々木さんの祖母)。
佐々木 本当ですか? お祖母ちゃんは、当時佐々木初太郎に子供がいなかったので、初太郎の兄弟の娘を養女にとったんです。第一発電所の工事の前に浦河っていうところで田んぼの灌漑用水路を作る仕事をやってたときに、捨て子の男の子と出会い、養子縁組させたんですが、また子供ができなかったんです。それで父親がヨシヱさんの兄弟の長男、佐々木金治郎を養子にしたんです。養子縁組した夫婦と養子に取ったうちの父親と3人で暮らすんですけど、この養子にきたお父さんは出てってしまうんですよ。
飯出 ヨシヱさんの養子縁組した旦那さんが出て行ってしまったと。
佐々木 はい。で、最終的に佐々木ヨシヱと金治郎と2人で、山奥で生活をしないといけない状況になったんです。
飯出 金治郎さんはヨシヱさんの甥っ子?
佐々木 甥っ子です。血は繋がってます。
飯出 金治郎さんが3代目になるんですか? で、佐々木さんのお父さん?
佐々木 そうです。だから直系で生まれたのが僕ということになりますね。
▲支笏湖の湖上から望むリゾートフルな丸駒温泉の全景。背後に聳えるのは恵庭岳。
大学までは野球に打ち込む青春
飯出 佐々木さんは何年何月生まれですか?
佐々木 1963 (昭和38) 年1月11日です。2022年には、59歳ですね。
飯出 ご兄弟は?
佐々木 僕が長男で弟と妹がいます。2人は外で働いてます。僕はここで生まれて、7歳まで暮らしていました。
飯出 へぇ~!
佐々木 なので、小学校1年生のときの冬場は学校に行けなくて、冬場行けないとどうしようもないってことで、学校のある対岸の支笏湖温泉に僕ら親子は出て行ったと。
▲湖側の芝生の広場から見た丸駒温泉旅館の建物。左がラウンジ、奥が宿泊棟と浴場棟。
飯出 中学は?
佐々木 中学はスクールバスで千歳まで通ってました。高校は白老ってところの当時野球の強い日本大学付属の北海道日本大学高等学校 (現:札幌日大高校) があって、私は野球をやりたくてそこの寮に入って。
飯出 高校時代は野球少年?
佐々木 はい、中学からやってて、厳しい練習をしてました(笑)。
飯出 そうすると大学は日大?
佐々木 大学は国士舘大学です。1~2年は町田市の鶴川のキャンパス、3~4年は豪徳寺のキャンパスに通ってました。大学でも軟式野球をやってました。
飯出 豪徳寺ですか、良いところですね。何学部だったんですか?
佐々木 政経学部です。当時は国士舘と言えば泣く子も黙るという感じでしたが、今は普通の大学になっちゃいましたね(笑)。
▲フロントの奥にある支笏湖に面したラウンジ。ここから湖畔の芝生の広場に出られる。
飯出 そうでしたよね(笑)。それで大学を出られてからはホテルにお勤めされたんですよね?
佐々木 日本航空のチェーン店のホテル部門に6年勤めました。沖縄のオクマリゾートに3年、千歳に3年です。忘れもしない御巣鷹山に飛行機が墜落した1985 (昭和60) 年に入社したんですけど、JALの鶴のマークの看板を引っ込めたり、墜落した飛行機は123便だったんですけど、その部屋番号の部屋を売り止めにしたり、対応が大変だったのを覚えています。
飯出 私、御巣鷹山がある群馬県の上野村出身なんですよ。
佐々木 え、そうなんですか。その事故で亡くなった坂本九さんがうちのお祖母ちゃんと仲良かったもので、衝撃的でした。
飯出 6年間ホテルで働いて、それから戻られたんですか? そうすると28歳くらいですかね。でも、もともと継ぐ気はあったんですよね?
佐々木 そうですね。もう少し外でやりたい気持ちはあったんですけど(笑)。
▲ラウンジの隣にあるレストラン。昼間は外来客もOKで、ヒメマス料理などが味わえる。
帰郷後すぐに働く人の環境作りに着手
飯出 それで、戻られて、リニューアルしたのは1965 (昭和60) 年と伺いましたけど、戻ってきたときはもう建て替えは済んでいた?
佐々木 もう出来てました。金治郎がリニューアルしたものの働く人がいなくて、それが大変で戻ってきてほしいと言われたんですよね。
飯出 私は、ホテルの経験を活かして、佐々木さんがリニューアルしたのかと思っていました。
佐々木 僕が帰ってきたときにはリニューアルは終わっていたのですが、働く人の環境作りをなんとかしなきゃいけないというのが急務でした。今みたいに機械化もされていなくて、僕は朝5時に出勤して、帰宅するのは深夜0時を過ぎてましたから。
▲ラウンジから外に出ると、湖岸の散策や記念撮影が楽しめる芝生の広場がある。
飯出 そのときのお住まいは?
佐々木 対岸です。旅館って、秘湯の宿は大体そうですけど、それをやったらずーっとそのやり方でしかやらないんですよね。外から人も入ってこないから。
飯出 そのときは、スタッフは千歳市内から働きに来てもらってたんですか?
佐々木 そうですけど、本当に人がいなくて。一番最初にやったのは田舎の高校に就職説明に回って、その次の年に新卒8人くらいとりました。結局、都会の学校だと山には来ないから、ここよりも田舎なところに行って、札幌近いですよ~と言って(笑)。あとは、食器洗い乾燥機を導入したり、バイキングで100人のお客さんが来るのに100枚のお皿なんておかしいと買い足したり。結局、そういうところが、気がつかないところなんですよね。
飯出 それには、ホテルでの経験が活かせました?
佐々木 そういうわけではないんですけど、僕は身内だから社長の父親に提案しやすくて。社長は今まで従業員から提案されたことなどないですから、良いんじゃないって判子押して買ってくれるわけ。でも、そうすると、息子が帰ってきたら何でもできるようになって、逆に面白くないという人も出てきたんですよ。
飯出 はぁ。
佐々木 それで、僕が入ってから辞めていく人が増えて、代わりに新しい人が入ってと従業員の入れ替わりがありました。今日、クルーザーを運転していた彼にも来ないかと僕が声をかけて。
飯出 もう長いこと勤務されているんですか?
佐々木 もう15年以上ですかね。
▲芝生の広場の先端には専用桟橋があり、支笏湖遊覧が楽しめるクルーザーが発着する。
飯出 この建物になってから (「日本秘湯を守る会」の生みの親で、朝日旅行会の) 岩木さんが来られたんですよね? 当時、鉄筋建築の宿には入会審査が厳しいと聞いていましたが。
佐々木 はい。僕が「空港から近いし、こんな建物でも良いんですか?」と聞いたら、こんな露天風呂は他にはないと仰ってくれて、それで入会しました。
飯出 なるほど。足元湧出の天然岩風呂が決め手になったんですね。あのお風呂は丸駒温泉の宝物ですよね。
佐々木 はい、そう思いますね。
飯出 佐々木さんが社長になったのはいつ頃?
佐々木 父が2015 (平成27) 年に亡くなって、それから社長という形になってますけど、亡くなるちょっと前には代表権は持っていて、代表取締役専務ということでやってました。
飯出 なるほど。
佐々木 まぁ、こういう宿は家業なのか企業なのか、というのが一番大きい選択肢で。
▲天然岩風呂のほか、浴場は男女別の内湯+展望露天風呂がある。写真は男湯の内湯。
飯出 奥様と息子さんは対岸にある「メメール」にいらっしゃるんですよね? あそこはいつから「メメール」になったんですか?
佐々木 昔は丸駒商店っていうお店だったんですよ。お袋があそこをお土産店でやってたんですけど、それをお袋が辞めて、それを今は「メメール」と名前を変えて、妻がお土産と飲食のお店としてやっています。
飯出 奥様はどちらの方ですか?
佐々木 沖縄です。ホテル時代に。
飯出 ほぅ、沖縄から北海道ですか。お子さん何人ですか?
佐々木 3人です。男、男、女で。長男は全日空ホテルに勤めてて、次男は個人でネット関係やってましたが、昨年12月から丸駒温泉旅館に就職しています。娘は全日空に非常勤で勤めてます。
飯出 大変ですね、いまはコロナで。
佐々木 大打撃ですね。国際線の方をやってるので。飛行機が入ってこないので。
飯出 どの子が継いでくれそうですか?
佐々木 できれば長男、次男と2人でやってくれれば良いですけど。
▲内湯から湖岸に出ると、支笏湖と風不死岳を望む展望露天風呂(写真は男湯)がある。
昔は船で訪れ、食材は自給自足!?
飯出 ところで、あの湖畔道路、私は有料道路のときに来てるんですけど、湖畔道路から丸駒温泉まで道ができたのは何年ですか?
佐々木 昭和40年くらいにはありましたね。ただ冬は除雪車が入らないので、手で除雪しないといけない状態でしたけど。あっちの広い道路も未舗装でしたけど、ありました。舗装されて整備されたのは1972 (昭和47) 年の札幌オリンピックのときですね。
飯出 私のおぼろな記憶だと、対岸から船でこっちに渡ったこともあったんですけど。
佐々木 基本はそれです。道路があっても船ですね。正面玄関は、僕が物心つくまで湖でした。
飯出 そうですよね、桟橋みたいなね。この建物になる前の湖畔のお風呂は、湖に湯船から手がつけるような造りでしたが。いまある堤防は作ったんですよね?
佐々木 堤防は前からありました。僕も湖面に手をつけられたような記憶があるんですけど、多分昔の方が湖水の量が多かったんだと思います。昔は露天風呂の周りですべて生活してたんですよね。洗濯板で洗濯して、そこで野菜を洗って切ったり、魚のハラを取って食べられないところを湖に投げるとエビが寄ってきて、そのエビを獲って食べたりとか。
飯出 なるほど。
佐々木 今日10人入るよって言われたら、ヒメマスを10匹釣ってくる。で、10匹以上は釣らずに料理して出す。で、エビの唐揚げを料理で出すときは、露天風呂のところに行って網で獲って使う。なので、食べる分だけ獲ってました。
▲レストランのほかに囲炉裏付きの食事処もあり、夕食には北海道の味覚が堪能できる。
飯出 昔は、お風呂は露天の岩風呂しかなかったんでしたっけ?
佐々木 いえ、内風呂もありました。岩風呂と岩風呂に屋根を付けた内風呂っぽいのがあって、そのほかに内風呂もありました。
飯出 今、源泉は4本あるんですよね?
佐々木 岩風呂の男女が1本ずつ。その他、展望露天風呂のすぐ横に掘った2号井と、地蔵岩源泉というのが一番遠いところで。昔、いとう温泉ってあったんですけど、そのすぐ横に地蔵岩源泉があって、自噴してるのを引っ張ってきてます。
飯出 いとう温泉、懐かしいですね。あそこの湖畔の露天風呂も魅力的でしたよね。こちらの内湯と展望露天風呂のお湯は混合ですか?
佐々木 内湯は混合です。展望露天風呂と貸切風呂は2号井から取ってます。
飯出 今、こちらのお部屋は何室ですか?
佐々木 55部屋です。
飯出 1階~3階、みんなお部屋があるんですね?
佐々木 そうです。湖側と山側と。基本的には和室ですが、和洋室タイプが9部屋あって、いずれは和洋室タイプを少し増やしていきたいです。
飯出 食事はすごく感心しました。「日本秘湯を守る会」の宿の中では、クオリティはトップクラスだと思いました。食材も良いし、料理の仕方も良いし。
佐々木 そうですか。ありがとうございます。料理に行者ニンニクって出てましたよね? 行者ニンニクは、僕が採りに行ったんですよ。
飯出 えぇ~、そうなんですか。
佐々木 毎年4~5月に120kgくらい採るのがノルマなんですよ。僕の仲間5人くらいで一緒に採って。そのお礼に仲間は一泊招待で(笑)。
▲朝食はレストランが会場のバイキング。北海道のバラエティ豊かな料理が楽しめる。
コロナ禍になって再確認したこと
飯出 最後に、コロナ禍でどういうことを感じました?
佐々木 やはりコロナになってから、しんどいですよね。皆さんに助けていただいてますけど。
飯出 そうでしょうねぇ。
佐々木 報道一つでこれだけお客さんの動きが変わるというのが、どれだけ観光が必要なものなのかと。ある意味観光というものは無くならないというのは確信しました。だからこそ、復活することはできるだろうと。形を変えなければいけない、変えない方が良いという物事の考え方を、コロナになってからは向き合えるようになりました。もっと言うと、インバウンドが5年くらい前から来るようになって、インバウンドに依存したくないということで、すごい頑張ってきたんですけど、がんじがらめになって依存しなきゃいけない状況になってしまったんですよね。
飯出 がんじがらめですか。
佐々木 はい、スタッフも外国人の方がやりやすいんですよ。中国人とか後出しにすると嫌がるので、いっぺんに出してくれと言われてその方が楽だとなって。日本人と違って酒飲まないんですよ。家族で飲み物飲むっていったらお湯かお茶くらい。なので、食事が30分くらいで終わってしまうんです。で、それがコロナになって日本人が客の中心になると、日本人の方が大変だってなったんですね。
飯出 でも、お酒をある程度飲んでもらわないと、売り上げは上がらないですよね?
佐々木 はい。でも、その代わり稼働率はどんどん上がるので。
▲新婚旅行客の利用も多い特別室の和洋室。湖側に面し、窓からは支笏湖が一望になる。
飯出 コロナで影響は相当ありましたでしょ?
佐々木 年間3割くらいインバウンドだったので、残りのマックス7割で1年間やらなきゃならないですけど、7割が5割くらいになってますから。実質2~3割のお客さんしか来なくて。
飯出 そうなんですね。
佐々木 ただ、これまで50何年間生きてきて、支笏湖の自然の良さって漠然としたもので、どうだから良いっていうのが自分に自分で問いかけて答えられなかったんです。それで、ある友人が山を案内してくれることになって、行ったらこんなところに滝があったんだとか、そういうのがわかるようになって。あと、コロナになってから毎朝6時に起きてお風呂に入るんですけど、お客さんいないからそれをしみじみ感じるんですが、今までと違う目線で見るとこういうところに汚れが付くんだとか、ここはこうしないと、というところがわかるようになって。
飯出 なるほど。
佐々木 僕、ヒメマス釣りも今までやらなかったんです。湖も釣りもあまり好きじゃない方なんですけど(笑)、行者ニンニクを6年くらい前から採ってお客さんに食べていただくと、仕入れのお金が浮くだけじゃなくて、僕が採ってきたんですっていうと喜んでくれるんですよね。今年、船の免許取りに行って、釣竿用意して釣りも始めたりして。
▲支笏湖名物といえばヒメマス料理。レストランのランチメニューでも手軽に味わえる。
「種プロジェクト」について
飯出 「種プロジェクト」に参加していただいたのは、あれは我々「温泉達人コレクション」がご案内してから参加してくださったんですか?
佐々木 そうです。それで色々なところを見て、最初は「日本秘湯を守る会」の宿が入ってなかったので、なんか怪しいかなと。失礼な話なんですけど。こんな良い話ありえないよなと。それが、(「日本秘湯を守る会」会員宿の) 嵐渓荘さんが入ってるのを見て電話してみたり、自在館さんが入ってるのを見て、それならやろうと。
飯出 我々としても、「これは必ず行きます!」と前払いする応援システムだから、お客さんが素直に応援する気持ちを表せるのが良いなと思って。で、丸駒温泉さんや自在館さんが入ってくれたので、参加施設も一気に上がったんですよ。
佐々木 本当に有難くて。コメント見たら涙出るくらいで。
飯出 やはりコメント読んで力になるというお宿が多かったですね。
佐々木 僕、100%自分でコメント返したんですよ。僕の友人も支援してくれたりして。常連さんとかはお支払いだけしてくれて、金券使わないんですよ。
飯出 あるお宿は、「種プロジェクト」のお金は勿体なくて使えないって言ってましたね。プールしてますとか(笑)。でも、最初は胡散臭かったんですね?(笑)
佐々木 胡散臭いというか、こんな良い話ないよね、どっか何か裏があるよねと(笑)。今だから話せますけど。
…あとがき…
初めて丸駒温泉を訪ねたのは、もう半世紀も前のこと。
対岸からの渡船で訪ねた丸駒温泉はまだ簡素な木造の建物で、突然訪ねた (当時は事前に予約して泊まることはほとんどなかった) 貧しい大学生を、インタビューにも登場する佐々木さんの祖母のヨシヱさんが快く迎え入れてくれた記憶がある。
旅行ライター、そして温泉紀行ライターとなってからも何度か訪ねることになったが、今回、佐々木さんにインタビューしているうちに、当時のことが懐かしく思い出された。
やがて、丸駒温泉は現在の北海道を代表するリゾートホテル風の湯宿にと変貌を遂げるのだが、これだけの宿を4代目として継承した佐々木さんにとって、この未曽有のコロナ禍の中、経営していくのは並大抵ではないはず。
それでも、そんな質問に対する佐々木さんの回答は一貫して明快。
こちらの質問に1を聞いて5を答えるといった歯切れの良さも印象的だった。
さすがは、支笏湖一帯の観光事業を率いるリーダーなんだなぁ、という認識を再確認するインタビューとなった。
(公開日:2022年4月10日)
◆カテゴリー:湯守インタビュー