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Vol.27/川古温泉 浜屋旅館・林 泉

上州の伝統的な湯治宿を継いだ、研究者を目指した湯守の熱い思いとは?

湯治の伝統を継ぐ宿がきわめて少なくなっている群馬県の湯宿の中で、神経痛やリウマチに特効があるとされてきた川古温泉浜屋旅館は数少ない湯治の伝統を守っている宿だ。
自炊湯治こそいまは出来ないが、それに代わる手作りの家庭料理を3食用意してくれる、安価な湯治プランも健在である。
そこには、確固たる信念と方針を持つ3代目館主の存在がある。
温厚な風貌の内に秘めた、湯守としての熱い思いと矜持に迫るインタビュー。

川古温泉 浜屋旅館・林 泉さん
林 泉 (はやし いずみ) /1962 (昭和37) 年3月26日、川古温泉浜屋旅館の長男として生まれる。地元の小・中学校を卒業後、群馬県立沼田高校に進学。早稲田大学第二文学部、さらに明治大学大学院にて朝鮮古代史を専攻。30歳で帰郷して家業を継ぐ。3児の父。現在、みなかみ町観光協会理事 (監事)、みなかみ町国民保養温泉地協議会会長、群馬県温泉協会理事、赤谷プロジェクト地域協議会会長などを務めている(2020年12月現在)。

 


祖父の代に川古温泉を引き継ぐ

飯出 まず、川古温泉はいつ頃の開湯なんですか?

 はっきりは分からないんですが、祖父がこの地に入ったのが大正年代で、ちょうど500mほど下流に1916 (大正5) 年に創業した日本酢酸醸造株式会社があり、木を伐り出して蒸留し、木酢液などを作っていました。昭和の初期まで続くのですが、火薬の原料も作っていたと言われています。

飯出 へぇ。

 祖父はもともと猿ヶ京にいて、そこから酢酸会社に勤めたそうです。すでにここには温泉があり、小屋があって湯守の方がいたそうです。

飯出 風呂だけ入れる感じ?

温泉達人・飯出敏夫

 そうだと思います。そのうちどういうわけか湯守の人が祖父にやってみないかとすすめて、祖父が受け継いだということです。

飯出 じゃあ、お祖父さんが最初ですね。

 はい。温泉自体は、この地域の古老に聞いたことがあるんですが、この辺りに白い析出物が見え、そこにたくさんヘビがいたので、掘ってみたら温泉が湧き出したということです。おそらくは江戸時代の終わりごろのことだと思います。

飯出 なるほどね。

 当時は35~36度くらいの温泉が岩の割れ目から出ていました。直接そこに浴槽を組んでいたそうです。そんな状況でも湯の効能があるということで、結構お客さんが来ていたようです。1955 (昭和30) 年までには木造3階建ての旅館にまでなっていましたが、1959 (昭和34) 年に火事で全焼。焼け出されたところに所有権の問題などで裁判沙汰にまでなりながらも、何とか解決して今に至ります。

飯出 あぁ、温泉自体はね。じゃあ、いわゆる湯宿を始めたのはお祖父さんからなんですね。その浜屋旅館という屋号がなかなか分からないですけど?

 よく言われます (笑)。浜屋はうちの屋号だっていうんです。もともと祖父の祖先は新潟の方から来ているらしいので、そうした関係があるのかもしれません。

川古温泉・浜屋旅館/外観
▲人里離れた赤谷川の河畔に建つ一軒宿の浜屋旅館。現在は手前の新館だけが稼働。

 

飯出 あぁ、じゃあ浜に関係してたのかもしれないですね。浜屋の屋号って言ったら海の方ですもんね。猿ヶ京に住んでいたとき、旅館はしてないけど、屋号はあったんですか?

 あったらしいです。猿ヶ京は旧三国街道の関所があり、越後と江戸とを結ぶ交通の要衝でもあったので、祖父以前に住み着いたのだと思われます。

飯出 なるほど。で、お祖父さんがここを開いて、親父さんが継いだわけ?

 うちの親父は3男だったのですが、東京で料理修業をしていたもので、旅館に入ることになって帰ってきて。

飯出 へぇ。それじゃお父さんが料理を作ってたんですね。

 はい。

川古温泉・浜屋旅館/赤谷川
▲川底の小石まではっきりと見える赤谷川。この流れを見ているだけで心が落ち着く。

 

大学院まで朝鮮古代史を研究

飯出 林さん、生年月日は?

 1962 (昭和37) 年3月26日。今年 (2021年) 59歳です。

飯出 どこで生まれたんですか?

 ここです。ここから歩いて小学校に通っていました。そうそう、小学校1年から3年までは3学期だけですけど赤谷の公民館を分校として、先生一人で3学年を見るということも体験しています。小学校5年の途中からスクールバスが導入され、中学校卒業までバス通学でした。

川古温泉・浜屋旅館/男湯の内湯
▲湯は加温・加水、循環ろ過、塩素投入無しの源泉かけ流しだ。写真は男湯の内湯。

 

飯出 高校は?

 沼田に行きました。さすがに通えないので下宿しました。

飯出 沼田高校から早稲田大学に行ったの?現役で?

 いえ、英語ができなくて一浪して早稲田の第二文学部に入り、卒論で朝鮮古代史、具体的には高句麗の対外関係史をテーマにしました。とはいえ、学部の3年までは鉄道で日本中を駆け回っていました。実は鉄道研究会に入ってましたので。4年の時は卒論もあり、「テツ」は控えていたのですが、研究にかこつけて夏休みに一人で韓国に行ってきました。東京駅から夜行列車に乗り、関釜フェリーで往復するという初めての海外旅行でしたね。

飯出 ほぅ、鉄っちゃんだったんですね (笑)。その経歴を活かす機会はありましたか?

 鉄道研究会にいたことから、その後水上駅にあるD51 745号機の再塗装や水紀行館にあるEF16 28号機の修繕に関わった「SLみなかみプロジェクト」の会長にさせられたりしましたね。

飯出 なるほど。しかし、朝鮮古代史という専攻は珍しいですよね。

 そうですね。なかなかいないですね。

飯出 で、大学院にも行ったんでしょ?

 卒論指導の先生から、「(当時は) 早稲田の東洋史は朝鮮史の院生を取らないから、ほかで勉強するしかありませんね」と言われ、東京都立大の研究生を1年やって、明治大学の大学院に拾ってもらいました。ドクターまでいましたから、早稲田より長くいましたね。

飯出 へぇ~。大学の教職の道へ進む気は無かったんですか?

 無かったわけじゃないですが、大学院にいた頃にここの新館を建てるという話になって、どうする?ということになり。そろそろ年貢の納めどきかな、という気になって(笑)。

川古温泉・浜屋旅館/女湯の内湯
▲女湯の内湯。どの内湯の湯も空気に触れさせずに、浴槽の底から投入する方式を導入。

 

飯出 何人兄弟?

 4人。弟は沼田で動物病院をやっていて、妹2人はうちで働いてます。

飯出 じゃあ、長男だし、(跡を継ぐのは) 仕方ないかという思いはあったんですね?

 まぁ、しょうがないですよね。実際のところ、当時、朝鮮史研究で就職できるのは狭き門で、40歳くらいで専任講師になれれば良いくらいの感じでした。それまでどうやって食べていくのか悩みましたね。

飯出 なるほどね。

 ただ、群馬に戻ると決めた後に、韓国留学の話が持ち上がったんですが、結局それは後輩に譲ることになりました。

飯出 タイミングですね。おいくつのときに戻られたんですか?

 ちょうど30歳になるかならないかくらいのときですね。まぁ、新館ができてからは旅館の仕事を手伝わされてまして、たまに大学に行くような生活でした。

飯出 奥さんとはどこで知り合ったんですか?

 嫁さんは湯宿温泉の魚屋の娘だったんですよ。

飯出 結婚は何歳で?

 31歳。戻ってきてすぐ、見合いです。

飯出 へぇ~。まぁ、旅館やるなら嫁さんいないとしょうがないってもんですかね(笑)。お子さんは?

 子供は3人。長男はみなかみ町の役場に勤めていて、下は2人とも京都で大学生。私ももうすぐ還暦だから、そろそろリタイアかなと。

飯出 還暦はね、全然、若者ですよ (笑)。僕なんか70歳からの方が楽しいですから (笑)。いま「温泉百名山」選定を目標に必死に山に登ってるんですけど、コロナ自粛で身体がなまってしまって、ダメですね。

 同級生は定年を迎え、私もいつ死ぬかわからないから、好きなことやりたいなと(笑)。

川古温泉・浜屋旅館/混浴露天風呂
▲自慢の大きな混浴露天風呂。湯浴み着の着用OKで、レンタル(1日300円)も完備。

 

伝統的な湯治法の“ぬる湯に長湯”

飯出 川古温泉は湯治宿としての名声が古くからあったですよね?なんかことわざ、ありましたよね?

 「川古のみやげは一つ杖をすて」っていう。

飯出 あと、「夜づめの湯治」とか? 笑い話だけど、ずっと温泉に入ってて布団使ってないからまけろって言われたことがある、って言ってませんでした?(笑)

 そんなには言われてませんよ、1人くらい (笑)。

飯出 でも、そんなに長湯してたってことですよね。自噴してた頃は、何度くらい?

 35度くらいですね。昔はぬるい湯に1日7〜8時間入浴し、だいたい1週間~10日くらい滞在してました。

飯出 一番効くと言われてるのはリウマチでした?

 神経痛やリウマチですね。まぁ、完治するわけではないですけど。

川古温泉・浜屋旅館/客室(ベッド)
▲客室「こぶし」。お年寄りや身体の不自由な客の要望で、ベッドの部屋も数室設けた。

 

飯出 大体、温泉に即効性を求めること自体おかしいですから、症状を和らげる感じでしょうね。今の源泉はボーリングしたんですよね?

 はい、私が大学行ってる頃です。掘ったら出ちゃったんです (笑)。量が多く出たので、パイプで河原に流していたら、お客さんは勝手に河原に穴掘って露天風呂作って入ってました (笑)。

飯出 新源泉は何度だったんですか?

 40度弱です。

飯出 前より5度くらい上がったんですね。

 それで一気に楽になりました。寒くなってくると、湯を加熱して浴槽に入れたのですが、熱くなってくるとお客様の間で言い争いになったりして大変でしたけど、何もしなくて良くなりました。

飯出 ここの建物は、旧館と本館があるんでしょ?

 本館というか新館は1989 (平成元) 年に建てたもので、旧館は今、客室としては使っていません。

川古温泉・浜屋旅館/客室
▲稼働させている新館の客室はトイレ付きで、和室中心に12室。エレベーターも完備。

 

飯出 新館は何部屋?

 12部屋です。すべてトイレ付きの客室です。家族経営ですので、そのくらいじゃないと無理ですね。

飯出 お風呂は男女別と混浴の内湯、それに混浴の露天風呂?

 はい。あと、女湯の内湯の前に小さな露天を作りました。

飯出 あ、そうなんですか。

 混浴だけだと、マナーの悪い方がいらっしゃるので。

川古温泉・浜屋旅館/女湯の露天風呂
▲混浴露天はハードルが高いという女性のために、女湯には女性専用の露天風呂もある。

 

川古温泉の最近の湯治事情

飯出 今でも長期滞在のお客さんはいますか?

 だいぶ少なくなりましたね。

飯出 湯治のお客さんは何泊から?

 一応、2泊以上でお願いしてます。

川古温泉・浜屋旅館/混浴の内湯

▲混浴の内湯。付き添いが必要なお年寄りや身体の不自由な人にもありがたい存在だ。

 

飯出 お得なんですよね?

 湯治プランは2人で泊まったら3食付けて1人1泊あたり9000円、4泊以上になると8500円になる感じです。年輩者が夫婦で何日も泊まろうというのに、1泊2万も取れないじゃないですか。本当は3~4泊したら良いと思うんですけど、今は1、2泊しか泊まれない人が多いですよね。

飯出 ですよねー。で、2泊以上だと湯治料理にしてもらえるんですよね。お料理はどなたが作ってるんですか?

 みんなでやりますけど、妹が主でやってますね。湯治の料理は家庭的な料理中心ですから、それほど手がかかるものではありません。

飯出 湯治客と観光客の料理は分けてるんですか?

 違いますね。一般のお客さんに出すのはイワナやニジマスといった川魚を中心に、この地域で取れた食材で組み立てます。湯治を目的にいらっしゃるお客様はお年寄りが多いですから、量は少なめにして肉や野菜をバランスよくお出しするようにしています。

川古温泉・浜屋旅館/観光客用の夕食の一例
▲観光客用の夕食の一例。山川の食材を使って、すべて手作りの家庭的な料理が並ぶ。

 

飯出 なるほど。それに、そんなに旅館料理を食べ続けていたら、きっと具合悪くなっちゃいます(笑)。食べきれないほどの量を出すのは、そうしないと金額を取れないからってことでしょうからね。

 そうですね。ただ、特に初めてのお客様は難しいですね。湯治プランの料理を前にすると、あれ?ってなったり。

飯出 勘違いしちゃってますからね。

 (設備や料理内容を) 良くしようと思うと宿泊料金を上げざるを得ないですから。原点に戻って考えたいですね。

飯出 結局、ちゃんとした温泉を持ってるかどうかがポイントになりますよね。今、林さんが言ったようなことは、自分とこの温泉が確かなものであるという自信があるから言えるのであって、湯に自信がなければ、あとは旅館の設備を良くするとか、料理を豪勢にするとか、そういう話になっちゃいますからね。

 結局、コンサルタントだってそういう話しかしないでしょ?

飯出 そうそう、温泉そのものでは勝負できないから。

 今後、温泉そのものはもちろんのこと、昔から行われてきた温泉療養、湯治といった習慣に改めて目を向けなければならないと思っています。

飯出 それは心強いですね。

 医学が発達したいまでも限界はあるし、特にストレスにさらされた心の問題は深刻です。せめて2泊、できれば3泊ぐらい滞在して、心と身体を癒すことが求められてくると思います。

川古温泉・浜屋旅館/食事処
▲食事は椅子とテーブルが中心のダイニングに用意される。湯治客には昼食の提供も。

 

「みなかみユネスコエコパーク」と「赤谷プロジェクト」

飯出 林さん、なかなかユニークなシャツですけど?

 ああ、これね。これは2017年にみなかみ町が「みなかみユネスコエコパーク」に登録されて以降、デサントとコラボして作られているポロシャツですよ (笑)。

川古温泉 浜屋旅館・林 泉さん

飯出 ほぉ、その「みなかみユネスコエコパーク」とは?

 エコパークですか?うーん、そうですね。エコパークとはユネスコ (UNESCO) が認定したもので、このポロシャツに書かれている「Biosphere Reserve」、訳すと「生物圏保存地域」というものです。日本ではあまりなじみがないので「ユネスコエコパーク」と呼んでいます。

飯出 たしかに。あまりなじみはないですよね。

 良く知られている世界遺産とは異なり、生態系の保全と持続可能な活用を目的とするもので、守るべき貴重な自然を「核心地域 (コアエリア)」、その周囲に研究や環境教育、エコツーリズムが可能な「緩衝地域 (バッファゾーン)」、そして豊かな自然を背景に人々が生活し持続的な発展を可能にする「移行地域 (トランジッションエリア) 」に区分します。

飯出 なにか、そのエコパークの活動と関わるきっかけがあったんですか?

 私が関わる「赤谷プロジェクト」と関係の深い宮崎県綾町が2012年にユネスコエコパークに登録されたことから、その年の終わりに、当時、みなかみ町環境課と共に実際の取り組みを視察してきました。その視察を通じて、ユネスコエコパークがみなかみ町の自然と共生した町づくりにも必ず役立つだろうと確信したわけです。実現にはかなりの時間がかかるだろうと思っていましたが、話はとんとん拍子に進み、視察から5年かからずに登録されることになりました。

飯出 なるほど。で、今出てきた「赤谷プロジェクト」というのは?

 うーん、もっと長くなりますが、いいですか (笑)。もともと私がいる旅館の上流に「川古ダム」建設計画がありました。当時の建設省直轄の事業でしたが、2000年に突然中止になります。同じころ当時の新治村にはスキー場の計画もありましたが、こちらは村を二分するような反対運動などもあって撤退が決まります。まあ、いろいろありましたが、この二つの大きな事業はすべて白紙になったわけです。村当局や推進派の人々にとっては相当ショックだったはずです。結果的にスキー場ができなかったことは、今から見れば幸いでしたが。

飯出 ダム建設、スキー場開発と、大きなプロジェクトがともに白紙ですか。

 はい。そうした中で、ダムで水没する予定だった土地やスキー場の計画場所がそのまま残されるわけですが、そのほとんどは国有林です。そこで当時自然保護運動にもかかわっていた日本自然保護協会が、地主である林野庁、地元の地域の人々と3者による協働管理を持ち掛けたのが「赤谷プロジェクト」の始まりです。

飯出 結構大がかりな組織なんですね。

 はい。林野庁・日本自然保護協会、そして私が会長をしている地域の住民で組織する「赤谷プロジェクト地域協議会」の3者によって構成され、生物多様性の復元と持続的な地域社会づくりを目指しています。
本来であれば行政が入るべきなんでしょうが、これまでの経緯や従来のやり方とは違ったものということで、前代未聞の枠組みが出来上がります。長続きするのかなぁと思いましたが、もう20年近く続いています。

飯出 ふーむ、なにやら難しそうな (笑)。

温泉達人・飯出敏夫

 そうですねぇ。もう少しかみ砕いていうと、生物多様性の復元というのは、手入れの行き届かないスギやヒノキの人工林を伐採し、本来の植生である広葉樹の森へ戻していこうというものです。まあ、相当時間のかかる取り組みです。

飯出 なるほどねぇ。

 そうやって、豊かな自然から得られる水や木材などの恵みを無駄遣いしないで大事に使いながら、自然と共生した地域社会を維持していこうというのが持続的な地域づくりになります。温泉についても、源泉保護の観点から、周辺の自然環境の保全は重要ですよね。また、湧出量の維持には、源泉の過度な利用は控えなければなりません。

飯出 たしかに。温泉を守るということと、周辺の自然保護とは切っても切れない関係ですよね。

 そうですね。もう一つ言うと、綾町に視察に行ったとき、住民の人たちが自分たちの住む地域について調べ、自らエコツーリズムを実践していたことに深く感銘を受けました。そこに暮らす人々が地域の文化や歴史などを知り、そのような活動によって自らの地域に誇りをもち、訪れた人に自分たちが住む地域の良さを伝えることができるんだと思ったわけです。

飯出 なるほど。その活動にも膨大なエネルギーを傾注しているわけですね。そりゃ、なにかと忙しいはずだわ(笑)。

 まあ、「赤谷プロジェクト」の取り組みは比較的狭い地域のものですが、「みなかみユネスコエコパーク」の登録によって、みなかみ町全体の地域づくりの取り組みへ広がったことは、町のアイデンティティー確立にも有効だったのではないかと思います。まだまだ課題はありますが、これからの取り組みが大事だと考えています。

飯出 この問題はいくら時間があっても語り尽くせないでしょうから、興味のある人にはみなかみユネスコエコパーク赤谷プロジェクトのWEBサイトを参照してもらいましょう。

 

湯治療養を再評価して未来に繋ぐ

飯出 最後なんですけど、コロナの災難でどんなことを考えました?

 5月の連休に営業自粛でお客さん全然いなくて、いつもはてんてこ舞いのこの時期にのんびりしていることが不思議でした。移動解除になってから少しずつお客さんを受け入れてきましたが、はたしてこの先、前のような状況が戻ってくるのか不安ばかり募ります。営業を辞めた人もいるし、自分たちの代で終わりっていう人もいる。子供たちに継がせていいの?って話は結構しますよね。

飯出 う~ん、厳しいですねー。

 何か違ったことでも考えなきゃいけないのかなと思うこともありますが、ただそういう中でも、うちのような温泉自体の魅力とか湯治というのは、新しい世代が2~3泊で来る可能性があるし、都会での仕事や生活のストレスに行き詰まりを感じてるような人々が来てくれるかもしれない。かつて温泉地は宴会絡みの行楽客が多かったですが、それよりは個人やご夫婦が心と身体を休めるような場所を作っていくことは、それなりに需要はあるんじゃないかと。

川古温泉・浜屋旅館/ロビー
▲新館のロビー。窓の外には赤谷川と対岸の山肌を望むだけの秘湯の自然環境にある。

 

飯出 いわゆる湯治スタイルで、温泉そのもので心身のメンテナンスをするということですね。

 はい。やはり温泉は1回入っただけでは心身の変化はわからないと思います。3~4日入浴を続けると身体の変化を感じると思います。いわゆる転地効果ですよね。

飯出 それが再認識されてくれば、川古の未来は明るい?

 明るいかわかりませんが、続けていけるんじゃないかと思います。旅館の運営は家族でやってますけど、将来的には家族じゃなくても良いかなとは思ってます。運営を任せられるようなパートナーが現れればですが。

飯出 このコロナ禍で、いろんな意味で動きがありますよね。淘汰というのは厳しい言葉ですけど。

 結構すでに辞めてるところも出てますね。

飯出 まだ、しばらくは様子見、といった情況が続くんでしょうね。

川古温泉 浜屋旅館・林 泉さんと温泉達人・飯出敏夫

 

…あとがき…

林さんとはわりと古くからの付き合いだが、いつも感心するのは温厚な人柄と理路整然とした語り口だ。
大学院まで朝鮮古代史を研究していたというキャリアに驚いたことがあるが、なるほど古代朝鮮の民族衣装がとても似合いそうな風貌に、深いインテリジェンスが窺える。
みなかみ町における旅行業界のリーダーのお一人に違いないが、もっと前面に出て引っ張ってもらいたい気がする。
ご本人は還暦を迎えるのでそろそろ一線から身を引きたいなどとおっしゃっているが、冗談じゃありませんよ。
まだ60歳、筆者から見れば若者そのものです (笑)。
これからがまさに円熟のとき。
湯治宿のあるべき姿を実現するために、そして温泉業界の目指すべき未来に向けて、その知見と指導力をもって大いにご活躍いただきたい。

(公開日:2021年1月10日)

◆カテゴリー:湯守インタビュー


 

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川古温泉・浜屋旅館/混浴・露天風呂

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