草津温泉の一等地に建つ実家の湯宿を継いだ、若き女将の湯守の思いとは?
草津温泉のシンボル・湯畑のほとり、共同浴場白旗の湯と白旗源泉を左右に従えるような場所に草津舘はある。
まさに草津温泉の一等地の立地だが、建物は鉄筋建ての大型旅館が建ち並ぶ草津温泉の中では慎ましく見える小ぶりの木造3階建てだ。
そのたたずまいが好もしい。
この宿の一番の魅力といえば、至近距離にある白旗源泉と自家源泉「若の湯」の2種類のとびきりピュアな源泉かけ流しの湯が堪能できることだろう。
そして、明るい笑顔で迎える家族2代のハートフルなもてなしが印象に残る。
2人姉妹の長女として生まれ、他家に嫁ぎながらも宿の継承を勧めてくれた優しい夫君とともに、草津温泉の人気の佳宿を継いだ若き女将の湯守としての熱い思いに迫るインタビュー。
田村 裕子 (たむら ゆうこ) /1976 (昭和51) 年10月18日、草津温泉・草津舘を営む山口誠・純子夫妻の長女として生まれる。地元の小学校を卒業後、中学校から母の実家の前橋へ。高崎市にある農大二高から玉川大学外国語学部に進学し、英語を専攻。卒業後はヒルトンホテルや大学の研究室に勤務し、2004 (平成16) 年に中学時代の同級生だった田村雅彦さんと結婚。夫君の勧めもあり、帰郷して実家の家業を継ぐ。2児の母でもある。2020年 (令和2年) 6月に正式に草津舘を継承。女将となる。
二人姉妹の長女として生まれて
飯出 裕子さんが長女? 裕子さんは何年生まれ?
裕子 1976 (昭和51) 年10月18日。妹が1人います。
飯出 妹さんはどうされてるの?
裕子 今、川口市で子供を5人育ててます。5人姉妹なんですよ。
飯出 女の子ばかり! 女系家族ですね。
裕子 父の兄弟もみんな女性です。
飯出 裕子さんは、小・中学校は草津?
裕子 小学校は草津で、中学校から前橋へ行きました。母の実家が前橋で、そこから通ってました。高校は高崎の農大二高ですね。
飯出 あ、もうその頃には農大二高があったんですね。野球部が甲子園に出たりしてましたよね。
裕子 私のときは、野球部の甲子園と駅伝の京都とラグビーの花園と、応援ばっかりで全然勉強してなかったですね(笑)。
飯出 チアリーダーでもしてたんですか?
裕子 いえ、追っかけというか(笑)。(農大名物の) 大根踊りをやったりして。中学ではブラバンやってたんですけど、高校は生物部に入って(笑)。
飯出 地味ですねぇ(笑)。カエルの解剖とかしてたの?
裕子 植物、鳥、昆虫に分かれていて、私は植物を選んで、日曜日に県内の山へ行ってみんなで歩いたりして。この辺りだと小野子山や岩櫃山、今は八ッ場ダムが出来て景色が変わった吾妻渓谷などハイキングしたのはよい経験でした。夏休みには尾瀬合宿。山小屋に3泊4日で至仏山や燧ヶ岳に登りました。
飯出 へぇ、いいですね~。
裕子 冬はスキー合宿があるっていうんで、生物部に入ったんです。
飯出 大学は玉川大学って言ってましたよね?
裕子 そうです。外国語学科で英語を専攻してました。
飯出 では、海外のお客さんが来ても大丈夫ですね?
裕子 なんとか通じてるのかなぁ(笑)。
▲草津温泉のシンボル・湯畑のほとりに建つ、木造3階建ての草津舘の瀟洒な外観。
雅彦さんとの再会、結婚、そして家業継承へ
飯出 卒業された後はどうしたの?
裕子 新宿のヒルトンホテルに就職して、アルバイト含めて2年くらいで辞めてしまったんですけど。
飯出 辞めて、こちらに入られたの?
裕子 いえ、フラフラしてました(笑)。
飯出 フラフラ(笑)。
裕子 叔父が電気通信大学の教授をやってて、そこの研究室で3年間ゆるゆると事務をやってました。その後、2004(平成16)年に東京で働いていた夫と結婚しました。
飯出 ご主人とはどこで知り合ったの?
裕子 中学の同級生なんです。あぁ、恥ずかしい(笑)。
飯出 へえ。で、たまたま東京で再会したの?
裕子 大学生になるくらいの頃に再会して。地方から東京に出てきたメンバーで集まろうみたいになって。
飯出 ご主人はどこの大学ですか?
田村夫(以下、雅彦) 宇都宮大学で建築を勉強してました。
飯出 へぇ、群馬から栃木の大学へ(笑)。でも、国立ですもんね。宇都宮大学なのに、東京の会合に出てきたんですか?
裕子 そうなんです(笑)。友人に引っ張られて。
飯出 ははは。ご主人は就職したんですか?
雅彦 大学院を出て、積水ハウスに5年くらい勤めました。
飯出 それで、戻ってくる決心はどういうところでしたんですか? 結婚されたのは何歳?
裕子 26歳のときですね。主人が大学のときに草津舘でアルバイトをしてて。夏休みとか冬休みの忙しいときに、連れてきて。
飯出 拉致したのね(笑)。
雅彦 自分の実家にいるより、こっちにいる方が楽しいと思って。
飯出 ご主人は前橋に実家があるの? ご兄弟は?
雅彦 前橋です。姉と2人です。
飯出 長男なのに、よく拉致できましたねぇ。
裕子 あちらのご両親のご理解があってですね。
飯出 ご主人のご両親は家継ぐ商売ではなかったわけ?
雅彦 昔は鋳物工場を自営でやってたんですけど、私が中学のときに店を辞めたので、家業を継ぐっていうのはなかったんですね。
▲男湯の内湯。手前の湯船に白旗源泉、奥の湯船に自家源泉「若の湯」がかけ流し。
明治20年創業、裕子さん夫妻で6代目?
飯出 ところで、さっきからそこでお父さんがむずむずしてるようだから…、ハラハラかな(笑)。お宿の歴史的なことは、お父さんにお聞きしましょうかね。ここは草津の中でも、めちゃめちゃ一等地じゃないですか。
山口父 そうですね。
飯出 ここのお宿としての創業はいつからって言われてるんですか?
山口父 1887 (明治20) 年の5月頃ですね。
飯出 ということは、草津温泉ではそんなに古くはないですよね。その前はなんだったんですか?
山口父 当時、(草津は) 軽井沢からの道が主な街道だったんですね、どうやら2人乗れる馬を先祖が飼っていたらしいんですよ。
飯出 あ、旅館業じゃなくて。今で言えば運送業ですね。
山口父 そうですね。タクシーみたいな感じ(笑)。馬蔵をやって、お客さんを泊めることは泊めてたと思うんですけど、定かではないです。
飯出 いわゆる旅館業って形になったのは、お父さんにとってはお祖父さんくらいの人?
山口父 その頃、曾祖父くらいだと思うんですよね。
飯出 ご主人で何代目?
山口父 5代目っていわれてるんですが、その辺もあまり資料で残ってないんですよね。
飯出 この建物は何年に造った建物ですか?
山口父 私が小学5年生くらいだから、60年前くらいですかね。その前の建物は、みんな栗の木使ってたんですよね。その名残で今も木造なんですけど。
飯出 良い感じですよね。木造3階建てでしょ?登録有形文化財の資格はありますよね?
山口父 いやぁ、大正の建物ならいけるかもしれませんが。娘達が住むっていうんで直したら大工が栗の木欲しいって言って持って行っちゃったんですよね。今、栗の木がないみたいなんです。
飯出 栗の木は貴重ですよね。栗の木の浴槽なんてたまにありますけどねぇ。確か、伊香保温泉の「玉樹」は栗の木の浴槽でしたね。
山口父 昔は、玄関がこっち (ロビーの中庭に面した方) だったんですよ。そこが熱の湯で、元々共同浴場だったんです。
飯出 いまでも (熱の湯の様子が) よく聞こえますね、湯もみガールズの歌(笑)。
山口父 熱の湯は、草津では珍しく、下からポコポコ湧いてるんですよ。
飯出 あ、足元湧出泉なんですね。私、あそこ入ったことあるんですよ。テレビ番組のオープニングで。出演者5名が、あの中に浸かってマヌケな顔してるのが、オープニングでバーンと映るんですよ(笑)。草津で足元湧出泉は珍しいですよね、大体45度くらいまでじゃないと、熱くて足元湧出泉は入れないから。
山口父 へぇ~、そうなんだ。
▲男湯よりも広い浴場の女湯。こちらも手前の湯船が白旗源泉、奥が「若の湯」源泉。
先代は芸大に進んだ芸術肌だった
飯出 お父さんは何歳で結婚されたの?
山口父 私は30歳で結婚しました。兄弟は、女3人います。子供の時に亡くなった兄もいたんですけど。
飯出 じゃあ、次男なんですね。お兄さんが亡くなって後を継ぐことになったんですね。
山口父 まぁ、フラフラとろくなことしてなかったですよ、親不孝で(笑)。
飯出 ここは田村姓じゃないんですね?
裕子 はい、山口なんです。私はお嫁にいった形で田村を名乗ってます。
飯出 山口さんって、確かに草津には何軒かありますよね。田村も多いでしょ? 四万温泉なんてほとんど田村ですもんね。
裕子 多いですねぇ。
飯出 裕子さんは長女だから、いずれはお宿を継ぐって気持ちはあったの?
裕子 はい。こんな環境で育ちましたから、継ぐつもりでいました。ただ主人と出会って、彼の大学4年生の卒業設計を見せてもらった時、あ〜この人は設計の道へ行くべきだな、一緒になるなら旅館は諦めないといけないな、と思ったんです。その設計というのが私には面白くて。草津温泉に「五感ミュージアム」温泉美術館を建てるというものでした。美術鑑賞をする前に併設の温泉に浸からなければ入場できないという設計で(笑)。入浴で瞑想して五感を研ぎ澄ませた上で、アートを楽しんでもらおうっていうコンセプト。学生らしい自由な発想でしょ? 栃木県の建築士会の賞を頂いていたような気がします。その後彼はその道に就職して結婚し、めでたしめでたしでしたが、そのなかで「草津舘は継ぐ価値があるんじゃない?」って言ってくれて…。あれこれ悩んだ末に、(宿を継ごうと) 決心しました。
飯出 ご主人はそのとき、どういう思いだったんですか? バイトしてたから、ここのことはある程度分かっていたでしょうけど。
雅彦 嫁さんがこっちに帰ろうと言って私を連れてきたのではなくて、私が「旅館を2人でできたら良いね」って声をかけたんですよ。なので、お嫁にいったり、こっちに来たり複雑になっちゃったんですけど。
飯出 なるほど。ところで、お子さんはうまいこと男女できて良かったですよね、女系家族なのに(笑)。
裕子 まだ、どうなることかわからないですけど(笑)。
飯出 肝心の息子さんはどう言ってるんですか?
裕子 旅館には興味あるみたいで、進路のところに旅館の仕事なんて書いてあるけど、すぐには入れないよって言ってますね。
飯出 まだまだ、高校も大学もあるからね。お嬢さんは?
裕子 今、中学1年生です。
飯出 お嬢さんはお宿のことは何か言ってるんですか?
裕子 やる気があるような感じはしますけど。
雅彦 娘はお兄ちゃんのマネをしたがるような感じで、剣道もそうなんですけど。
飯出 仲良しなのね。
雅彦 いつもケンカしてるんですけど、お兄ちゃん大好きで。
飯出 お父さんは後継問題のとき、どういう風に思ってたんですか?
山口父 やっぱり、勤め人のところへ嫁にいったから、これで決まりかなと思ったんですけど。専門が建築で大学院まで行ってるから、こんな貧乏旅館の後継ぎなんてもったいないなって(笑)。
飯出 なるほど。でも、(旅館と主人ともなれば) 一国一城の主ですからね。なんだかんだ言っても、使われるわけじゃないから。
▲夕食・朝食とも1階の食事処で。夕食は板前さんが腕を振るう本格的な会席料理だ。
雅彦 そうですよね、草津の一等地で宿をやろうと思ってもできることではないので。
飯出 しかも、バブルのときに鉄筋借金コンクリートにした宿ではないから、それは賢明だったんじゃないですか。
山口父 あの頃の親父がみんな悪いですね。競うようにでかいの造って。
飯出 そういう時代でしたからね。団体旅行で、いくらでも客がわんさか来てる時代だったから。でも、お父さん賢明でしたよね、このお宿を変に拡大しないで守ってこられたのは。
山口父 うちの親父が欲のない人で。それに、お祖父さんは道楽者で、鉄砲から釣りからね(笑)。
飯出 昔はどこの旅館の親父さんも遊び人多いですよね。家業は奥さん任せで(笑)。
山口父 祖父さんはうちの親父 (山口力雄さん) を獨協から医者にしようと思ったらしいんですよ。プレッシャーだったでしょうね。それで、獨協中学入れたんですけど、うちの親父はそんなの嫌だって言って絵画部へ入って絵ばっかり描いてて。で、そこの先生に気に入られて卒業して東京美術学校 (現・東京芸大) に推薦で入ったんですよ。入って1年か2年で、道楽者の祖父さんが死んじゃって、それで長男だったので継がなきゃならない感じになって。
飯出 で、学半ばにして帰らざるを得なくなったと。
山口父 親父が下宿してたとき、関東大震災で火事に遭って、絵はみんな燃えちゃったみたいなんですけど。あと、親父はスキーをしてましたね。あの頃、草津にスキーでお客を呼ぼうって言って。その頃旅館の親父はみんなスキーを習って、盛んにやってましたね。あの頃、スキーやる人の定宿みたいになってましたから。スキーは半分遊びで、半分仕事って感じで。
飯出 草津舘は館内がちょっとしたギャラリーみたいに絵画が多く飾られてますね。お父さんが画学生を可愛がり、宿賃代わりに描いた絵を引き取って泊めてあげたりしたと聞いたことがありますが、その絵も飾られているんですかね。
山口父 そのようですね(笑)。
▲館内にはあちこちに多くの絵が飾られ、アート気分も楽しめるギャラリーの雰囲気。
草津の療養温泉の歴史は消滅の危機?
飯出 (草津は) ある時代から療養温泉から高原のリゾート温泉へと変身を図りましたからね。大正、昭和の頃は医者に見放されたら最後は草津に行くしかないって時代が続きましたでしょ。花柳界の病はここで最後という時代で、無縁仏もいっぱいあるし。今の秋田の玉川温泉みたいなもんですよね。
山口父 そうですね。最後には草津へ、ということでいらしてたんでしょうね。
飯出 その頃は、伝統の入浴法「時間湯」が主流だったと思いますが、時間湯はどうなっちゃったんですか?
裕子 湯長制度はなくなって、町の管理になりました。千代の湯で体験可能です。入浴指導はなく、温度も44℃以下となりました。(地蔵の湯で行われていた時間湯は令和3年3月30日をもって閉鎖)
飯出 あの騒動の後に体験したらみんなぬるくなっちゃて、こんなん時間湯じゃないよって怒ったことありますよ。草津は熱い湯に我慢して入るっていうのが伝統ですからね。
山口父 ただ、ある先生の講演に行ったことあるんですけど、その頃から温度が高すぎて血液が濃くなっちゃうので年寄りには酷だと。でも、やはり医者じゃないけど、経験というのは大事だとは思いますけどね。
飯出 経験的効能というのは決して無視できないですよね。歴史的に積み上げられてきたものなので、科学だけでは判断できないものはあると思いますし、草津温泉がずーっと温泉番付のトップを守ってきた存在意義とか歴史的な意味とか、考えないとね。町長と湯長の確執かなんか知らないけど、伝統的な入浴法の時間湯を無くしちゃダメですよね。
▲3階の客室。窓からはそぞろ歩く浴客や、クリスマスシーズンにはツリーも見える。
山口父 今のところ、制度は残っているので。若手の連中もそう言ってます。
飯出 時間湯自体は、形としてはあるんですか? 実態は昔の時間湯とは離れちゃってますもんね。
裕子 若い方でも皮膚病治すためにアパート借りてる人とか、スーパーとか図書館でよく見かけたんですけど、あの方たちはどうしただろうと思います。
飯出 性病から、現代はアトピー性皮膚炎の療養客に変わったじゃないですか。アトピーは相当深刻なんですよ。草津のお湯で救いを求めている人たちもいっぱいいるんですよね、間違いなく。アトピーは相当辛いらしいですよ、ひどくなると掻きむしって耐えられないと。
裕子 そんな病に苦しむ人たちにとって、草津の湯は昔も今もかけがえのない療養温泉なんですよね。
飯出 自家源泉「若の湯」はここでしか使われてないのですか?
山口父 ここだけですね。
飯出 もったいないですよね、バンバン流れてて。
裕子 人の良い祖父 (力雄さん) が某ホテルに売ったけど、父がその配湯管に石をちょっとずつ入れて止めたという(笑)。
飯出 その話聞いた! お祖父さんが売ってしまったわけ?
山口父 遠縁の議員にうちで温泉入りたいって言われて、嫌々お金もらっちゃったんでしょうね。(配湯管の)穴はまだ残ってるんですけど、自宅まで持っていったと思ったら行き先が違ったんです(笑)。
飯出 えぇ!(笑)。で、某ホテルにいってたんだ。はぁ~、今は笑い話ですけどね。
山口父 まぁ、よくある話ですよ。色々ありました。
▲玄関から帳場に向かう途中の窓から見える「若の湯」源泉。湯船まで数メートル。
励まされた「種プロジェクト」の試み
飯出 今回の新型コロナウイルスの影響は相当深刻だと思いますが、こちらはいつから休業されてました?
雅彦 (2020年の) 4月21日~1ヶ月ですね。
飯出 そのときは、さすがの湯畑も人が消えたって聞きましたけど。
雅彦 群馬県から休業要請があって、温泉地全体で休業しました。ただ、強制的に休業しなければいけないというわけではないので、中には営業しているところもありました。その辺の判断が各々なので悩みましたね。
▲物販コーナーではセンス良く陳列された「温泉達人コレクション」公式グッズも。
飯出 休業しろって言われても保証がついてこないと中々難しいですよね、セットでやらないと。余力のあるお宿だったら耐えられると思うけど、相当深刻ですよね。コロナ禍で何を一番感じました?
裕子 やはり、代々続いてきた中で、先人たちは苦難を乗り越えたのかなと思って。でも今も営業を続けているってことは、何かここにあるのかなと思って、もう一回信じてみようかなと思いましたね。それこそ、太平洋戦争のときなんて宿どころではないし、ここは学童疎開を受け入れて。それでもまた宿として復活してきてるので。
飯出 まぁ、確かに毎日営業されているときは、考える間もなく、追いまくられるだろうけど、1ヶ月も休業させられると色々考えますよね。
裕子 それこそ、ワックス塗ったり、ハガキを書いたり、その中で「種プロジェクト」に出会って。でも、うちなんかが出したってねぇって。
雅彦 その話を飯出さんに紹介してもらったとき、最初は反対したんですよ。困ってるのはみんな一緒だし、お金出してくれみたいなのはやめた方が良いってなったんですけど、話を進めていくうちに支援してくれる人がいっぱいいて、それでここまで来たんだなっていう。
▲先代の山口誠・純子夫妻、当代の田村雅彦・裕子夫妻と、草津舘玄関前で「いいゆ!」。
飯出 僕が「種プロジェクト」の趣旨に賛同してお勧めしたのは、寄付じゃなくて先払いだから「コロナ禍が収まったら必ずまた泊めてもらいに行きますよ」っていう意思表示と応援でしょ。困ってるから寄付をしてくださいというのとは根本的に違うので、利用するお客さんとお宿さんが一緒に頑張っていこうって気分になれるシステムだと思ったんですよね。額は大した金額じゃなかったかもしれないですけど、一言一言応援コメントがあったと思うんで、それが励みになるんじゃないかなぁと。
裕子 すごく嬉して。今でもしんどくなると「種プロジェクト」で頂いたコメントを読み返して、涙して(笑)、エネルギーに変換しています。他のお客様でも心配の電話をくださったり、後で行くから先にお土産送っておくよ、とか、こんな小さな宿を想って下さる方々がいる。もうそれだけで充分。なんとか宿を継続していこう。今はそれだけです。
飯出 多分、1回か2回泊まりに来たお客さんが、「種プロジェクト」を見て参加しようと思った方が多いんじゃないですか?
裕子 9割が、一度来られた方でしたね。
飯出 それは、旅館冥利につきますよね。この商売をしている人しか経験できない感動というかね。
裕子 嬉しかった~。それこそ、私が小学生のときにアルバイトで来てた方や中学時代の恩師達がネットワークで呼びかけて応援して下さったり。
飯出 よく見つけてくれましたよね。
裕子 そうそう、こんな話が。戸塚第三小学校5年生の子達が疎開できたときに作文を置いていったんですね。今の新宿辺りで、その学校はもうないそうですが。その作文に、お父さんが生まれたって書いてあるんです。
飯出 お父さんが生まれた!?(笑)
裕子 四国から訪ねてきてくださった方もいましたね。今、87歳くらいですか。その頃は食べ物もなかったですから、コロナはその頃を思えばと。
飯出 ただ、コロナは目に見えないのが厄介ですよね。
裕子 作文には、畑に行ったとか、薪拾いに行ったとか、スキーをさせてもらったとか書いてあります。そんな歴史を見つめる機会にもなりましたね。
山口父 今、何人くらい?
裕子 今、47人かな。本当に有難いです。
飯出 金額がどうこうよりも、そういう気持ちが励みになって、それで頑張ろうって気持ちにさせてくれれば、それは良いことですよね。
裕子 コロナ禍の日々、夫婦でしみじみ話したのは、うちはお客様に恵まれている、ということです。とにかくお客様が素晴らしい人ばかり。よい人ばかりなんです。休業明け、常連さんが「草津舘は僕らにとって不要不急じゃないんだよ」と言ってくださったことがあります。「疲れた身体や心を整えるのにこの場所は必要不可欠なんだよ」、と。しびれました(笑)。そんなお客様だからこそ、感染対策をより心掛けてくださり、日々の検温、外出はなるべく控えて、なかにはPCR検査を受けてまでして来てくださった方もいました。いくら旅館側が対策を講じても、コロナは隙をついてきます。完璧、万全はありません。それでも草津舘ならではの「お客さまとの連携プレー」で、よりガードを強くして、この場所を守っていきたい。それが今の思いです。
…あとがき…
草津温泉の一等地に建つ木造3階建ての宿で、自家源泉も保有する宿と聞けば敷居の高い高額な宿を連想するが、この宿は意外なほど家庭的な雰囲気の適正価格の宿という印象を受ける。
それにご主人も奥さんも気さくな感じで、つい最近跡を継いだ若夫婦の笑顔の絶えない温かい接客に心が和む。
たまには若い女性の湯守インタビューもしたいなぁと思っていたので、裕子さんは願ってもない、まさにうってつけの女性であった。
当方のそんな温度を敏感に感じとったのか、いざインタビューを始めると、父上も夫君もまるで愛娘、愛妻を守護するかのようにその場から離れず、不安そうな面持ち。
で、今回は初のファミリーインタビュー的な様相に(笑)。
そして、それは終始笑いの絶えない、実に楽しいインタビューになったのだった。
(公開日:2021年5月30日)
◆カテゴリー:湯守インタビュー