水中指圧療法「ワッツ」が話題、中伊豆の湯守の本音に迫るインタビュー
温泉王国といわれる伊豆半島にあっては、船原温泉は地味な存在かもしれない。
いや、地味な存在だろう。
中伊豆から西伊豆への通過点となる里山の峠路で、その風景も景勝地と呼べるほどでもない。
しかし、こと船原館の自家源泉の質となると、筆者は伊豆では屈指の相当にいい温泉だと太鼓判を押す。
2014年11月の温泉分析書によれば、源泉温度45.6度 (浴槽に届いた時点で43度くらい)。
揚湯量は毎分150リットルもあり、船原館1軒だけで使用。
もちろん、加水・加温・循環ろ過・塩素消毒無しの正真正銘の源泉かけ流し。
しかも、万人に優しいpH8.0の弱アルカリ性の単純温泉である。
これほど恵まれた条件の温泉はそうはない。
そんな恵まれた温泉を、飄々と、しかも用意周到にして慎重果断に、黒字経営を貫いてきた湯守のマイペース人生の極意に迫るインタビュー。
鈴木 基文 (すずき もとふみ) /1953 (昭和28) 年8月31日、天城湯ヶ島町 (現・伊豆市) で、炭やシイタケなどを扱う問屋の長男として生まれる。その5年後の1958 (昭和33) 年に実家は温泉旅館「船原館」を開業した。地元の小・中学校を卒業後、韮山町 (現・伊豆の国市) にある名門の県立韮山高校に進学。下宿生活をしながら陸上部の部活に励む。大学は立教大学社会学部で社会学を専攻。大学卒業後、すぐに実家に戻って家業の手伝いをするが、間もなく父親が急逝。25歳の若さで船原館を継承する。啓庫夫人と、2男の父。進取の精神に富む学究肌の人らしく、水中指圧療法「ワッツ」と「天城流湯治法」の資格取得とその施術、県主導のファルマバレー構想から生まれた「かかりつけ湯」の初代代表幹事、中国・敦煌への旅がきっかけとなった井上靖文学館の財団理事なども務める。
狩野川台風襲来の1958年秋に開業
飯出 船原温泉は何年くらいにできた温泉なんですか?
鈴木 開湯伝説としては、源頼朝なんて話とか、弘法大師とか色々な話があるんですけど、ちょっと私は信用してないんですよ。
飯出 弘法大師まで出てくるんですか。
鈴木 多分、江戸時代ぐらいは湯治のお客さんが案外来てたんじゃないかな。ちゃんとした温泉になったのは、地元の人の昔のお金持ちが旅館を始めてからじゃないかなと。当時は湯治場で皮膚病に良いって言われたんですね。浅いところから出る温泉ってかなり良かったみたい。
飯出 なるほど。今の泉源とはちょっと違う場所から出てたわけですね?
鈴木 うちの敷地内に昔から自噴していたぬるい温泉があったんですけど、それ目的の湯治に来たいっていう問い合わせが10年前くらいまではありましたよ。
飯出 その温泉に入りたいと。
鈴木 だけど、もうそれはないですよ、って言って。
飯出 当時、船原温泉としては、船原館しかなかったわけ?
鈴木 いや、うちが始めたのは1958 (昭和33) 年ですから。その前は鈴木旅館とか、熊野旅館とか、地元の名士たちが造った旅館があって。
飯出 その旅館は、いつくらいまであったんですか?
鈴木 鈴木旅館は、純金風呂で有名だった船原ホテルに変わったんですけど。鈴木旅館があったのは戦後すぐくらいまでじゃないでしょうかね。
▲西伊豆の土肥へと続く国道136号が、船原峠への登りにさしかかる地点に建つ船原館。
飯出 今は、船原温泉としての宿は何軒あるんですか?
鈴木 うちと「山あいの宿 うえだ」の2軒です。この上に、天城ふるさと広場っていうグラウンドがありまして、そこはスポーツ施設なんかが出来ているんですけども、そこにも3軒くらいあるんです。
飯出 へぇ、そうなんですか。船原館っていうのは誰が建てたんですか? お祖父さんくらい?
鈴木 私の父親です。元々は炭屋。炭とかシイタケを出荷する問屋をやってたんですよ。
飯出 ここの場所で?
鈴木 はい、ここで。だけどガスが普及してきて炭が売れなくなるんじゃなかということで、ちょうど観光が上り坂でかなりこの辺りでも旅館は増えた時期だった1958 (昭和33) 年に開業しました。狩野川台風が来たときです。
飯出 え、台風が来たときなんですか?
鈴木 狩野川台風が来たときにはまだ建築中で、柱が立っているようなときで、大工さんが絶対ダメだろうと思って来たら、奇跡的にうちが残ってたんですって。
飯出 へぇ、良かったですねぇ。
鈴木 台風が9月にきて、開業が11月だったんです。
▲広々とした飾り気のないロビー。左手には喫茶室 (夜はBARになることも) もある。
大学卒業と同時に帰郷して家業を手伝う
飯出 鈴木さんは何年何月生まれ?
鈴木 昭和28年8月生まれ。
飯出 お、うちのカミさんと同級生ですね。鈴木さんは何人兄弟?
鈴木 3人で、男・男・女の長男です。弟は湯ヶ島のたつた旅館やってます。
飯出 あ、あそこは弟さんなの!
鈴木 うちの母親が出た家なんですけど。
飯出 なるほど。で、小・中学校はここ?
鈴木 もう廃校になってますけど、船原小学校、狩野中学校に行きました。
▲食事処は廊下で繋がった別棟にあり、囲炉裏を囲んで名物「お狩場焼き」を味わう。
飯出 もう廃校になっちゃったんですね。で、成績優秀な鈴木少年は韮山高校に進学するわけですよね? ここからは通いにくいんですか?
鈴木 まぁ、通えなくはないんですけど、両親が大変ということもあって下宿してました。
飯出 韮山高校は伊豆半島の優秀な生徒が行くんですよね。高校時代はたしか陸上をやってたんですよね? 逃げ足が速いのはそのせいですかね?(笑)。
鈴木 はい、そのせいかもしれません(笑)。跳躍やってたんですよ。走り幅跳びとか三段跳びとか。
飯出 はぁ。結構、成績良かったんですか?
鈴木 そんな良くないですよ(笑)。まぁ、真面目に部活はやってましたけど。
飯出 それで、韮山高校を卒業して立教大に進むんでしょ? 立教は何学部?
鈴木 社会学部の中に学科は3つあって観光学科もあったんだけど、そこいくと先が見えちゃうなと思って、社会学科に入りました。
飯出 でも、もうここを継ぐ意識はあったんでしょ?
鈴木 ありました。卒業してすぐここに入りました。
飯出 どこかで修業はしなかったんですね。両親はまだ若かったですよね?
鈴木 そのときはね。結果的に良かったのは、私が25歳の時に親父が亡くなったんです。
飯出 えっ、25歳で。
鈴木 でも、亡くなるまで2~3年あって、ある程度のことはわかるようになってからだったので。
▲夕食の「お狩場焼き」は、源頼朝がこの付近で巻狩りをした際の食事を模した趣向。
掘削自噴の湯は理想的な源泉温度
飯出 船原館の源泉って、今は川を渡った向こう側のところじゃないですか。それはここを建てたときからそこなんですか?
鈴木 もう、ずっと昔から。川の向こうで、1958 (昭和33) 年以前に、隣が小さい湯治宿をやってたんですが、それを買い取って旅館を始めたんです。なので、源泉は100年以上前の源泉です。
飯出 へぇ。数年前にボーリングをし直したんですよね?
鈴木 はい。みんな不思議がってたのは、100年間何もしないで、そのパイプでよく温泉が揚がっているなと言われてたんですね。でもいよいよどこかで漏れて、量も少なくなってきたので。
▲風呂は大浴場+露天風呂の「山の湯」(写真) と小浴場「川の湯」があり、男女交替制。
飯出 掘削自噴でしょ? 奇跡的と言えるほどの適温ですよね。
鈴木 昔は自噴でしたが、今はポンプで揚湯しています。温度は45.5度。
飯出 ここへ来ても43度くらいでしょ? ありえないですよ、普通は。
鈴木 量は150リットルあるので、毎日抜いても掃除してもまったく困らないです。
飯出 150リットル出て、1軒だけで使っているの?
鈴木 えぇ。本当に、そういう意味では苦労がないですね。
飯出 それは、恵まれてますよねぇ。
鈴木 はい(笑)。今の建物は、父親が亡くなるちょっと前くらいに、向こう (新館) を1975 (昭和50) 年くらいに建てたのかな。ここ (本館) が1967 (昭和42) 年の頭くらい。
飯出 それじゃ、鈴木さんは何も苦労してないじゃない(笑)。
鈴木 そう!(笑)。
飯出 恵まれてますよねぇ、そういう意味では。これから大変かもしれないけどさ。
▲「山の湯」に付属する露天風呂はこぢんまりとした岩風呂。山里の外気が心地良い。
鈴木 大変だったのは、父親が癌で半年くらい入院してたんですけど、お袋がずっと付いていたんで、結婚前だったし、一人でやるときはきつかったですね。
飯出 そりゃそうですね。結婚されたのは何歳?
鈴木 29歳のとき。
飯出 良いときですよね。今お子さんは?
鈴木 兄と弟の2人。ここは次男の栄登 (ひでと) が継ぐことになってますね。
▲いまだにラブラブな雰囲気の鈴木基文・啓庫夫妻 (この写真は2011年9月の撮影)。
「ワッツ」や「天城湯治法」の習得と実践
飯出 ところで、鈴木さんといえばやっぱり、「ワッツ」じゃないですか。あれは、そもそもどういうものなんですか?
鈴木 アメリカで指圧師をしていたハロルド・ダールさんという方が作った究極の水中療法と言える、リラクゼーション法です。
▲船原館の名を高めた水中指圧療法「ワッツ」。究極のリラクゼーションなんだとか。
飯出 なるほど。それで、どういうきっかけでやることになったんですか?
鈴木 それまでは普通の旅館の親父だったんですよ。お金儲けるためには団体が入ってくれて、コンパニオン上げて酒飲んでくれて、1部屋に4人も5人も詰めてと、そういう商売やってました。だけど、転換期がいろんな意味で1999 (平成11) 年なんです。
飯出 ほう。
鈴木 2000 (平成12) 年にはもう伊豆が疲弊し始めてました。そこで伊豆を何とかしようと、県が伊豆全体で「伊豆新世紀創造祭」っていう、当時で3億円かけたイベントを行ってくれました。その時の県の室長いわく、これは単年度のイベントじゃないんだと。
飯出 伊豆の観光が落ちて来ていると?
鈴木 日本の観光を引っ張ってたのは伊豆だと思うんですけど、落ちるときも最初に伊豆が引っ張ってたんですよ。僕らは感じてて、伊豆が悪くなってるのに、他の地域はそんな話が出ないなぁ、と思ってたんですよ。
飯出 へぇ。
鈴木 それを県がいち早く察知して、変えろと。ただ、花火上げて1年でお客さんがポーンと来て終わりじゃないと。自分たちが変わるのに、何をしなきゃいけないかを考えてくれと、いろんな勉強会を作ってくれたんですよ。それは「交通システムを考えよう」とか「景観を考えよう」とか、いろんな研究会や勉強会があって、その中の一つに「温泉文化研究会」というのがあったんです。
飯出 「温泉文化研究会」ですか。
▲窓の外に船原川が近い「川の湯」。床にもったいないほどの湯があふれる源泉かけ流し。
鈴木 県の仕事をよくやっていた野口ともこさんという人の主催でやってたんですけど、温泉の売り方を、昔のものを発掘したり、新しいものを作ったり、いろいろやったんです。その研究会のメンバーが20人弱いて、いろんな人間がいたんですね。
飯出 旅館関係だけじゃなく?
鈴木 えぇ。むしろ旅館関係は少なかったです。で、健康のことやってる人とかいて、その中に温泉療法やってる人がいて、初めてそこで「ワッツ」やってもらったりとかして、なんでこんな気持ちが良いんだと思ったんですよね。
飯出 へぇ。
鈴木 温泉の入り方にしても、いろんな入り方教えてもらって。健康には交代浴が良いんだとか、低温の長時間浴とか、それまで知らなかったですからね。それで、温泉のほうに興味が向いていって、じゃあ何すりゃいいかってときに「ワッツ」の資格を取って、最初はイベントでやってました。
飯出 イベント?
鈴木 2000 (平成12) 年の創造祭も、インストラクター呼んで、あのお風呂 (大浴場) だから無理矢理そのとき水を埋めたりしてやってたんですけど。その頃、マスコミの人たちと呑んだりする機会があって、そのときに読売新聞の若い人が取材に来てて、「基文さんが資格を取んなきゃだめですよ。これだとイベントの単発で終わっちゃいますよ」って言われて。で、確かにな、と思って。
飯出 なるほど。
▲「お狩場焼き」のメインは、もちろん天城名物の猪鍋。巻狩りの獲物らしい味覚。
鈴木 やはり目標として持っていきたいのは、いつ誰が来ても受けられるよっていう体制を作らないと、どうしてもお客さんって離れていっちゃうなと思ったんで、そのとき45歳くらいでしたが、資格を取りに行きました。
飯出 アメリカに行かず、日本で取れるの?
鈴木 日本で取れます。何回か行けば、講座と実習を受けて取るんですけど。その後、やる場所が大変でした。
飯出 で、結局、自分で造っちゃったわけね?
鈴木 2003 (平成15) 年か2004 (平成16) 年に今の「たち湯」を造りました。
飯出 「ワッツ」と「天城流湯治法」はまた別なんでしょ?
鈴木 別物です。「天城流湯治法」は、腰や膝が痛いなんていうのを自分でケアする方法を教えるものです。創造祭で知り合った伊東に住んでる杉本錬堂さんという方がいて、その人が作り出した療法なんですけど。今や、彼は世界中飛び回ってますよ。
飯出 いくつくらいの方?
鈴木 僕よりちょっと上で、70歳になるくらいかな。その人が変わったお客さん連れて来るんですよ。ネイティヴアメリカンの酋長、ペルーの長老、ハワイの酋長、モンゴルの僧侶とか連れて来て、みんなここで彼が「ワッツ」を体験させるんですよ。
飯出 ははは。
▲猪鍋に替えてワサビ鍋も。天城特産のワサビをすりおろして投入したヘルシーな鍋。
「ワッツ」や「天城湯治法」が繋いだご縁
鈴木 彼は「ワッツ」だけじゃ物足りなくて、「天城流湯治法」を一緒にしたようなものをやってね。
飯出 「ワッツ」をやってるのは、伊豆では鈴木さんだけなの?
鈴木 たくさんいますよ。
飯出 たくさんいるの? あんまり聞こえてこないけど(笑)。
鈴木 やる場所があまりないんでね。私の他に3人はここ使って、自分のお客さん連れて来てやってますよ。
飯出 あぁ、やるところがないからなんですね。それは、旅館関係の人じゃなくて?
鈴木 えぇ、旅館関係ではないです。あと、温泉とはまったく別ですけど、1999 (平成11) 年に東京の松原哲明さんというお坊さんがうちへみえて、敦煌に行こうって誘ってくれて、それから何回か中国に連れて行ってもらったんですけど。お父さんが松原泰道さんといって、仏教界の重鎮で。お二人とももうお亡くなりになりましたが。
飯出 で、敦煌に行って何したんですか?
鈴木 敦煌に行って、いろいろ仏教のこと教えてもらったりして、中国の五台山とか仏教の聖地を案内してくれて、それから仏教に興味を持ったりして。そのときに、添乗で付いててくれた旅行会社のガーさんという人と敦煌で話しているときに、どこから来たのかという話になって、井上靖さんが育った天城ですよって答えたら、「え!?」となって。
飯出 ほう。
鈴木 ガーさんがね、「井上靖さん、私が敦煌をご案内しましたよ」と。聞いたら、井上靖さんが初めて敦煌に来たとき、中国政府から「偉い先生が来るから案内しろ」って言われたんだって。
飯出 なるほど。
鈴木 それから文学との関わりができて、井上靖さんの生誕100年祭というお祭りが2007 (平成19)年にあって、長泉町の「井上靖文学館」の館長さんとの付き合いができて、それから井上靖さんの「あすなろ忌」とか梶井基次郎さんの「檸檬忌」に関わったり、いろんなことをやりながら日本中を回って。
飯出 それを、口実にしてね(笑)。
鈴木 ははは。
飯出 「まぁ、よく口実を見つけますよ」って、啓庫さん (奥さん) 言ってたもん。
鈴木 もう、そりゃ高跳びよ(笑)。
飯出 得意のハイジャンプね(笑)。
鈴木 地元の有志でやってる「井上靖ふるさと会」というのをやったりね。「井上靖文学館」の財団の理事もやらしてもらってます。
▲なにがそんなに楽しいのかな? 嬉しいのかな? のツーショット(2019年3月撮影)。
無借金で息子にバトンタッチが理想
飯出 鈴木さんは今、公的な役職というか、関わっているのは何?
鈴木 今はもうあまりないです。観光協会系とか、もう大体息子に譲ってますね。
飯出 じゃあ、結構、今は精神的に重い問題はないでしょ? 借金経営もしてないでしょ?
鈴木 えぇ。あとは、息子に嫁さんがいないってことくらい(笑)。
飯出 まぁ、それくらいですよね(笑)。息子に良い嫁さんが来ると安心ですよね。でも、このくらいの規模の宿で、借金経営してないところはそうはないですよ。
鈴木 そうですかね。
飯出 僕は別に勘が働く方ではないけど、鈴木さんとこは絶対大きな借金は抱えてないなって見てたんだけどさ。やはり、余裕が感じられるのよね。
▲客室は14室と少なめに抑え、1室の広さはゆったりとしたスペースの余裕の二間続き。
鈴木 やはり、「かかりつけ湯」とか公のことやって、もっと健康を切り口にやっていきましょうと言っても、なかなかみんな乗ってこなくて、やはりちゃんとした理念を持ってほしいっていうのがあるんだけど。県立癌センターの山口総長がおっしゃっているんですが、「かかりつけ湯」の大事にしなきゃいけない順番があると。
飯出 ほう。
鈴木 一番大事にしなきゃならないのは理念。次がみんなの団結。3番目に法を遵守することっていうのがあるんですよ。4番目に初めて個々の利益だと。その順番を間違えてはいけないと。さっきの話じゃないけど、明日の返済に苦労してたら、そんなこと言ってられなくなるんじゃないか、っていうのは自分でも思う。
飯出 そりゃそうですよ。理念がなんだよ、法がなんだよ、ってなりますよね。明日の借金返す方が先決だよってなっちゃいますよ。鈴木さんがこの宿を引き継いだときは借金なかったの?
鈴木 ありましたよ。親父が建てたときに借り入れしてましたから。
飯出 息子に借金を背負わせないで継がせられるって、そんな幸せなことないですよね。
鈴木 えぇ。だから、臆病なところもあるんですけど、感覚的にいくらまでだったら大丈夫かなと、勘みたいなところはあって。
飯出 それは大事なことですね。とりあえず、館内を修復したりってことはないの?
鈴木 いやぁ、女将にうんと言われてますよ。あそこもそこも、って(笑)。
飯出 それは息子さんの結婚が決まったら、少し手を入れて綺麗にして渡すっていうような感じですよね。今、鈴木さんが考えている船原館としての課題はなんですか?
鈴木 まぁ、「かかりつけ湯」が今、曲がり角でどうしようかという問題があって。自分の考えとしてはあるんですけど、行政も関わっていて、県のファルマバレー構想という大きな事業の中の一つなんでね。
飯出 ファルマバレー構想?
鈴木 ファルマって、ドイツ語で錠剤という意味らしいんですけど、静岡県の東部地域を医療の高度集積地域にしたいという。医療器具メーカーだとか、製薬会社とか、関わる企業がかなり多くて、その中の一つで伊豆半島にある温泉を使って健康産業みたいなことをしたいということで、「かかりつけ湯」って組織を立ち上げてやってきているんですけど。
飯出 ほほう。それはやっぱり余裕だわ(笑)。宿のことより、そっちの方を優先課題と言えるっていうのは、すごいことですよ。
鈴木 うーん、そうですかねぇ(苦笑)。まぁ、最初から関わってきましたから、責任も感じますしね。
…あとがき…
鈴木さんとお会いしたのはいつだったろうと記録をたどったら、2009年 (平成21) 年11月の「伊豆 かかりつけ湯」のプレスツアーが最初だったようである。
もちろん、このときは多数の取材陣の中の一員だったから、親しくお話しする時間などなかった。
では、いつから親しくなったのかと考えると、判然としない。
しかし、相当な頻度でお会いしていることは確かである。
俗にウマが合うという言葉があるが、そうとばかりは言えない。
筆者は鈴木さんのお人柄に惚れ込んでるフシがあるし、ずうずうしく甘えている部分も否定できない。
なにしろ、西伊豆に行く場合、船原館はひと息入れるのにちょうどいい場所にある。
喫茶室で淹れてくれる珈琲が抜群に旨い。
奥さんの笑顔がステキだし、息子さんの応対もそつがない。
つまり居心地がいい。
しかも、温泉は最近とくに好みになった単純温泉ときている。
で、ついついお訪ねする回数を重ねているといった次第。
まぁ、またいつものようにフラッとお邪魔するつもりですので、懲りずによろしくです(笑)。
(公開日:2020年6月14日)
◆カテゴリー:湯守インタビュー