不屈の探求心で“山下清ゆかりの名宿”を育て、卒寿を迎えた上州の湯守
有名な水上温泉の手前、JR上越線の無人駅「上牧 (かみもく) 駅」から徒歩5分ほど、まだ源流の趣がある利根川の流れに面して立つ3棟の建物が目を引くのが辰巳館だ。
一見、団体向きの平凡な宿に見えないこともないが、宿泊客は一様にそのきめ細かい接客、アメニティの充実、そして山下清画伯の貼り絵を題材にした「はにわ風呂」と湯の良さに目を見張る。
この名宿を育て上げたのが、今年卒寿 (数え90歳) を迎えた深津禮二氏だ。
私はこの博学にして雄弁な深津さんの話を聞く機会を「深津ゼミナール」と称して無上の愉しみとしている。
とどまるところを知らない、弁舌冴えわたる湯守のレジェンドに迫るインタビュー。
深津禮二(ふかつ れいじ)/昭和4年(1929)年生まれ。群馬県みなかみ町・上牧温泉「辰巳館」3代目。高校卒業後、医師を志し大学も合格したが、宿の後継者となることが決まっていたため、やむなく宇都宮の専門学校(農芸化学科で発酵学など)に学ぶも、21歳で呼び戻され、家業を継ぐ。持ち前の好奇心、探求心は家業にも遺憾なく発揮され、いまや「群馬に辰巳館あり」と称される名宿に育て上げた。平成18年(2006)4月に息子卓也氏に代表取締役社長の任を託し、現在は取締役会長として、変わらぬ情熱を持ってご意見番を務めている。日本温泉協会常務理事、群馬県温泉旅館協同組合理事長、群馬県温泉協会副会長、群馬県観光協会会長などの要職を歴任。
医師を志した青年時代
飯出 深津さん、辰巳館の創業は何年になるんですか?
深津 大正13年 (1924) です。
飯出 それは深津さんのおじさんが初代?
深津 はい。その弟で僕の親父が2代目、僕が3代目、長男の卓也 (現社長) が4代目になります。ただ、僕は当時学生で医者になりたかったんですけど、親父から「ダメだ、お前は養子に行くことになってんだから」って怒られて。初代が子供がいなくて、親父が順養子になったんですよ。親父も大学出て県庁の職員で、その仕事は好きだったみたいなんだけど。
飯出 なるほど。
深津 ですので、初代から僕は生まれたときにここに来いと言われたんですけど、親父がもう少し大きくなってから渡すからと言って…。
飯出 そのときは深津さん、どこに住んでたんですか?
深津 前橋です。で、前橋の中学行ったんです。
飯出 今の前高?
深津 はい、その頃は前橋中学です。で、卒業して、僕は医者になろうと思って、医科歯科大受かっちゃったら、「この野郎、とんでもない野郎だ」って親父にも怒られ、初代にも怒られて(苦笑)。
飯出 前橋中学の次は、もう大学なんですか?
深津 はい。前橋中学の4年生からもう受けられるんです。で、僕はその医科歯科大は行きたいと思ったんですね。
飯出 前橋中学は4年制?
深津 5年生まであるんですが、4年生から大学受験が出来るんです。じゃあ、宇都宮の専門学校は3年だからと頼み込んで、なんとか行かせてもらいました。
飯出 はあ。
深津 で、1年生になったら、親父から、「初代が病気だから試験終わったらすぐ帰ってこい」って言うんですよ。で、帰ってきたら、初代はクルップ性肺炎で、ストレプトマイシンを打たなきゃだめだと医者に診断されて。闇市でアメリカの5万、10万のを買ってきたんです。で、これを蒸留水で溶いて注射するんです。
飯出 それ、深津さんいくつのときですか?
深津 僕が19歳のときですね。
飯出 温泉は旅館を始めたときにはあったんですか?
深津 そうです。温泉は初代が掘ったんです。
▲登竜館最上階5階が朝食会場。ここからは利根川と谷川岳の双耳峰が美しく望める。
飯出 深津さんは次男?
深津 はい。兄は医者で、弟も博士になって。
飯出 深津家は、代々学級肌とお医者さん系なんですね。
深津 そうですね。
飯出 深津さん、お医者さんなったら、似合いそうですもんね~。
深津 医者になったら、良い医者になったかもわかりません(笑)。
飯出 そんな気がします。
深津 あるいは、坊主に成った方が良かったかな。
飯出 はい、両方いけますね(笑)。それで、結局ここへは何歳で入ったんですか?
深津 初代が亡くなったんですけど、なんとか卒業までさせてくれと頼み込み、専門学校を卒業してから21歳で入りました。卒業までの間は、親父が宿を見てるってことになって。なので、親父が2代目なんですよ。
飯出 あぁ、そうなんですか。21歳で戻られて、ずっとこのお宿をやってきたんですか?
深津 そうですね。
帰郷当時の「辰巳館」
飯出 その当時のお宿はどんな感じだったんですか?
深津 木造の3階と、もとの家があった平屋の2階ですね。
飯出 結構、大きなお宿ですよね。
深津 その頃温泉は少なかったので、利根温泉辰巳館って言ってました。
飯出 水上にあったんですか?
深津 そうですね。水上の水上館っていうのが、親分にいたんですね。それが、県会議員になるんですね。で、うちの初代とは、馬そりで荷物を運ぶ仕事仲間だったんですね。
飯出 はぁ、馬そりで。
深津 で、金ができたからっていうんで、宿屋もやるということに。
飯出 あ、もともとは馬そりの運送業みたいな感じだったんですね?
深津 そうです、運送業です。
飯出 もともと運送業で、その後宿屋は大正13年 (1924) に始められたんですね。そうすると深津さんがこちらに入られた何年ですか?
深津 昭和25年 (1950) ですね。
飯出 終戦後、間もなくですよね。その頃、お客さんはいました?
深津 いなかったですね~。僕が帰ってきたときには、本当にお客さんいなかった。で、どうしたら商売できるのかなと。女中さんは3人いましてね、おじいさんの板前さんがいて。初代が温泉運ぶの失敗してしまい、木管だったためにお湯もちゃんと届いてなかったんですね。
飯出 それは、川向こうで温泉掘って、こっちが出なくなったから無償で分湯するっていうことになったのに、届いてなかったんですね。
深津 はい。初代が契約書を作るときに、1分間4斗分湯すると書いたからいいやっていうんで。初代はその時はもう現場から離れているもんですから、簡単にサインしちゃったんです。
飯出 川向こうっていうのは?
深津 大室館っていう、東京の人の経営だったんですね。
飯出 今の病院があるところ?
深津 そうです。その大室館はね、やがて潰れちゃうんですよ。
▲こちらは大浴場「かわせみの湯」。今春張り替えたばかりの総ヒバ造りの浴槽が快適。
飯出 その当時は上牧としては、辰巳館と大室館の2軒?
深津 2軒ですね。もともとは辰巳館1軒だったんですけど。
飯出 あぁ、そういうこと。で、向こうが掘ったから影響が出たわけですね。
深津 そうそう。完全に影響出た。
飯出 客がいない中で、どういう苦労されたんですか?
深津 大室館は子供がいなくて潰れちゃうんです。で、結局、金属商の人が赤坂の芸者のお妾さんを女将さんにして引き継ぐんです。
飯出 昔はそういうパターン多いですよね(笑)。お妾さんに宿をやらせるっていうの。
深津 綺麗なお妾さんがこっちに来て、それが女主人で経営もするという。
飯出 それで、お客さんいなくてどうしたんですか?
深津 いやぁ、大変な苦労でしたね。どうしようかって言ったら、まず親父が良い風呂を作らなきゃだめだと言って、昔のを壊して男女の大風呂と家族風呂を作ってくれて。で、少し広告した方が良いって言って。
飯出 ほう。
深津 で、汽車の中で広告したんですよ。そしたら、少しお客さん来るようになって。その頃は、宿代4円なんですよね。
飯出 その時は、上越線は開通していなかった?
深津 開通してました。昭和6年 (1931) に開通しました。
飯出 あ、そうなんですね。
深津 結局、その頃はどうしようもなくていたんですけど、親父が離れを作ろうっていうんですよ。離れを二間でまず作っておけよと。そしたら、新婚さんが来るようになったんですね。で、直せば少しお客さん来るなってわかったんです。
飯出 なるほど。
▲登竜館にある特別室。ゆったりとしたスペースの落ち着いた雰囲気の和洋室だ。
大改装という博打、そして結婚
深津 で、あるときですね、昭和30年 (1955) くらいのときですかね、新しいもの作ろうって言って銀行行ったんですよ。そしたら、全然金貸さないんですね、こんな売り上げだから。しょうがないから、「聚楽」を設計している設計士の先輩のところ行ってね、悪いけど設計してくれないかな、とお願いして。そうしたら、地上4階、地下1階の設計図を書いてくれたんです。で、群馬銀行行ったら「とんでもない」と。なんとか2000万持ってきたら、5000万貸してやるっていうんです。ただ、設計士が良いからやらせてください、っていう大手の建設会社が6社もきちゃったんです。
飯出 はあ。
深津 でも金はないし弱ったなぁと。それで、しょうがないから (株)井上工業に行って、「良い宿作りたいんだ」って話をしたら、「設計図の通り作るからうちにやらせろ」っていうんです。で、「あなたにお願いしたいんだけど、一つ頼みがある。すぐ返すから現金2000万円貸してくれ」と。
飯出 はぁ、見せ金ですね。
深津 で、金庫をギーギーって開けて、新聞紙にガサガサ包んで、今だと4億円、5億円くらいの大金をトランクに積んで。群馬銀行行かないで、日本相互銀行の支店長のところに行って、予め現金2000万円持ってくるから、2000万円の小切手を切ってくれとお願いしてたんです。で、群馬銀行に行って、これが親父のお金ですと。じゃあ、うちで5000万円出す、とこういう風になったんですね。
飯出 はあ。
深津 で、考えたら苗場のスキー場始まったっていうのを聞いたんですよ。旅館は冬は全然商売にならないから、スキー板貸しをやろうと。ヒッコリーの良いスキー板を50台くらいと農協の組合長が持ってた苗場の200坪の土地を買って、辰巳商事株式会社という名前にして。
飯出 苗場は貸しスキー屋さんをやったんですか?
深津 そうそう。500台にして。
飯出 それは結構当たったんですか?
深津 それが大当たりしたの(笑)。
飯出 結婚はいくつでしたんですか?
深津 25歳で結婚したんです。
飯出 奥さん (初枝さん) はお見合い?
深津 お見合いですよ。
飯出 良い奥さんがお見合いで当たりましたねぇ(笑)。
深津 とんでもないです。おっかないんですよ(笑)。
飯出 えーっ、全然そうは見えませんけど(笑)。
深津 まぁ、それは冗談で。彼女には心から感謝してますよ。結婚歴64年にわたり、寒い環境の下、虚弱な体で、炊事・洗濯・育児・商売など筆舌に尽くし難い労苦だったと。奔放、好き勝手にやってきた私を支えてくれて、まさに内助の功、本当に心からそう思いますね。
飯出 奥さん、前女 (前橋女子高校) ですよね?
深津 はい。親友がいまして、仕事で疲れると彼のところによく寄るんですよ。ビール出すんで飲んで疲れて寝ちゃって、泊まって朝帰りしたりして。その親友の母が助産婦なんですが、昔取り上げた娘と見合いしてみるかって話になって…。
飯出 ほう、そんなご縁で。
深津 で、結婚してしばらく流産したりして子供がなかなかできなかったんですけど、嫁の両親と小沢先生 (医師) の並々ならぬご努力で、ようやくできたのが娘 (容子さん) なんですね。その2年後に卓也が生まれて。
飯出 なるほど。そういえば会長も卓也さんも前高 (前橋高校)、そして奥さんはお二人とも前女 (前橋女子高校) で、絵に描いたようなエリートカップルですよね。
名物「献残焼」誕生秘話
深津 で、このままじゃしょうがないからと、僕は慶応大学に勉強に行くわけですよ。ここから5時の汽車に乗って。
飯出 え?誰が?
深津 僕が(笑)。商売にならないから、経済の勉強に。ただ、勉強して帰る列車がなくて西銀座にアルバイトに行ってました。僕が大学行ってるときに、家内は有楽町の喫茶店に勉強に行って、そのあと辻さんのところにお料理の勉強に行ったんですよ。
飯出 深津さん、辰巳館はやっぱり色々良いんですけど、なかでも料理にこだわってるじゃないですか。特に、「献残(けんさん) 焼」は、深津さんが考案したものでしょ?
深津 はい。私が慶応行ってるときに図書館で本を見てたら「けんさ焼き」というのがあると書いてあったんです。で、調べたらおにぎりを焼いたのがあるっていうのがわかったんですよ。僕は民俗学が好きで、これだ!と思って。調べたら新潟の方にあるというんで、子供を自動車に乗せて確かめに行ったんです。
飯出 「けんさ」ってひらがなで書いてあったんですか?
深津 はい。で、新潟の人に聞いたら、意味はわからないと言われて。僕は、もしかすると「けんさ」って言うのは囲炉裏に関係があるかもしれないと思って、調べて。ここは、とにかく雑穀しか食べていないところだったから、城主が来たときに献上した白米のご飯の残りを焼いて食べたのではないかと。で、「献残 (けんさん) 焼」という名前を考えて商標登録をして。
飯出 なるほど。結局、焼きおにぎりが発端で塗るのは味噌だったけど、それに今は色々なところの食材をのせて食べさせるようにしてるでしょ。それは、後付けで色々考えたんですか?
深津 そうですね。ここは鮎の産地でしたから、鮎を串に刺して囲炉裏で焼きながら食べる感じでっていうんで、自在鉤をぶら下げていたんですよ。それを、卓也が人が食べてるところ歩くのは良くないからと言って、設計士呼んで直したんです。
飯出 テーブルのこと?
深津 そうです。テーブルにしたのは卓也なんです。当初は、囲炉裏で蓑 (ミノ) とか笠とか背負子とか、みんなぶら下げてやってたんですけどね(笑)。
▲夕食は、椅子席もある炭火食事処「蒼天庵」で、名物の「献残 (けんさん) 焼」を。
飯出 それで、卓也さんが戻られたのは、大学でイギリス留学行ってから?
深津 三井物産に4年いて。アメリカに赴任してたんですね。部長さんが来て「息子さんを10年預けなさい」と言われたんですけど、「僕、胃潰瘍やってて身体がこういう状態だから悪いけど返してくれ」と。で、部長さんは「残念だな~」と一晩泊まって帰っちゃったんですよ。
飯出 じゃあ、卓也さんは27か28歳で帰ってきたんですね。
深津 まだ三井物産で仕事したかったみたいなんですけど、僕が胃潰瘍になって入院したから、退社してここにきた。卓也は、三井物産時代に結婚して、こっちに帰ってきてすぐに子供ができましたね。
飯出 なるほど。でも、深津さん、卓也さんと奥さん (香代子さん) はいいですよね~。
深津 そうですかぁ。まぁ、一所懸命やってるんですよね。人が良いばっかりでねぇ。
飯出 ちょっと真面目すぎる?(笑)。親父の血がもうちょっと濃いと良かったかな(笑)。
深津 仕事ばっかりでね。頼まれるとどんどんやって、あれでは身体がもたなくなりますよ。
飯出 まぁ、深津さんもいっぱい役やってたし、息子にやるなとは言えないですよね(笑)。深津さんは何やってました?
深津 僕は、日本温泉協会の監査から常務理事して、副会長になるとき辞めました。あとは、群馬県の温泉旅館協同組合の役員をずーっとやって最後は理事長。それから群馬県温泉協会の副会長、群馬県観光協会の会長。まぁ、色々やらされましたね(笑)。
飯出 今は全部降りた?
深津 全部降りた!(笑)
▲地産地消なんて言葉が流行る前から取り組んだ、地元素材を使ったある日の朝食。
起死回生の営業活動と山下清画伯
飯出 で、お客さんはどうやって集めたんですか?
深津 お客さんは、自分で東京にセールスに行ったんですよ。ビラ作って社員を乗せて都内を車で回って。僕は、きっとこれから社会保険が良くなるから、社会保険事務所はまだ麹町と日本橋の2つしかできていないけど、これから徐々に増えていくだろうと見て、社会保険でまずお客さんをもらおうと。その前は、株式を調べてどの業種が利益上げているかを見て。で、10業種50社くらいに手書きの手紙を出したんです。そしたら、髙島屋が保養所にしたいって言ってきたんですよ。で、決まっちゃったんです。
飯出 おお。営業して開拓したわけですね。
深津 そうです。髙島屋の常務がうちだけが使うのはもったいないから、社会保険所の所長にちょっと話してみると麹町の所長を紹介してもらって、ついに都庁も紹介してもらって、それも決まって。
飯出 もう、人の繋がりですよね、本当に。
深津 有難いですねぇ。そんなことをやってるうちに卓也が帰ってきて。卓也に「借金うんとあるよ。僕は12億8000万の借金したんだから」って言ったら、「え~、そんなにあるの。三井物産とは全然違う」と驚かれました。
飯出 山下清画伯が来るようになったのは、深津さんがここを継いでからですか?
深津 あれはね、社会保険の関係なんですよ。麹町の社会保険が契約に来て、議員がいるから委員会を辰巳館でやりたいっていうんです。その関係で式場隆三郎さん (精神科医、医学博士) が来て。で、彼が宿を気に入ってくれて、お風呂作るときに日大の先生を紹介してくれたんです。で、先生が泊まりに来たんですけど、3日経っても何もしないんですよ。3日目に水彩で、こんなお風呂どうかなって描いてくれて。で、それがすごく良かったんでお願いしますと。
飯出 お願いしたんですね。
深津 で、先生から「お金がないっていうから日大の建築の学生15人くらい連れて来るから泊めてやって」と。先生が「君は埴輪が好きなようだから、俺が博物館で良いの見つけてきてやる」って言って、写真を撮ってきてくれたんです。そしたら、その埴輪が群馬で出土した農夫の埴輪で。
飯出 埴輪は焼いたんですか?
深津 はい。焼いて作ったんですよ。中に鉄筋が入ってるんです。埴輪の足の方見ると、「Kei Sasaki」ってサインがわずかに入ってます。
▲辰巳館が誇る山下清画伯の壁画が掛かる「はにわ風呂」。源泉かけ流しだ。
飯出 日大の先生は何ていう方ですか?
深津 山脇先生です。
飯出 で、山下清画伯は?
深津 山脇先生が壁画を描くときに前衛でサーっと描くって言ったんですけど、僕は前衛は描いた人しかわからないからヤダって言ったんです。お前何言ってるんだって怒られましたけど、おじいさんも子供もお風呂入るから、楽しくなるような絵が良いんだと。で、例えば山下清みたいなって。
飯出 ほう。
深津 そしたら、先生が壁画はお前に任せると。で、式場先生に相談したら、「山下清連れてくるよ」って言ってくれて。
飯出 え、そうなんですか。
深津 どうやら (山下清画伯がいた) 八幡学園の初代久保寺園長と式場先生が同郷ということで (山下清画伯の) 面倒見てたみたいですね。それで、貼り絵で紙は難しいからガラスで作ろうってことになったんですね。職人5人つけてくれて、1ヵ月半くらいいたかな。
飯出 山下清画伯も結構来たんでしょ?
深津 来た。最初に来たときは親父も生きてて。式場先生が「清、お前これからここの風景描くんだから川を見とけ」と言ったら、3時間以上経って寝てるんじゃと思ったんですけど、ずっと見てるんですよね。で、そのときは風呂入って泊まって帰っちゃった。で、今度はスケッチに来て、画用紙をいっぱい持ってきて、清の弟 (辰治) が手伝いに来て。で、こんな感じかなって描いては道路にパラッ、パラッてやってると、それを弟が拾いに行く。
▲山下清画伯の原画も多数残されていたが散逸し、いまは数点しか残っていないという。
飯出 最初に、山下清画伯が来たときは何年くらいですか?
深津 昭和35年 (1960) くらいですかね。
飯出 で、埴輪風呂の壁画ができたのは?
深津 昭和36年 (1961)。
飯出 壁画ができた後も山下画伯は何度もこちらへ来たんですか?
深津 来ました。3~4回来ました。春夏秋冬の絵葉書描いてもらうために。
辰巳館と後継への思い
飯出 深津さん、最後まとめになりますけど、卓也さんにはどういう思いを伝えておきたいですか?
深津 そうですね。僕はやっぱり、一つは宿っていうのは、またここに来たいなって思わせるような宿になってほしいと思ってるんですね。それと、この宿は優しい宿でないといけないと思うんです。そうじゃないと、せっかく来ても、お金払って来るのお客さんですから、嫌々ながら払っていく人もいるかもしれないしね。そういう人が1人でも少なくなればいいなと。
飯出 それはもう実現してますよ。本当に。
深津 まだできてないですよ。彼 (卓也さん) は努力してると思うんですね。嫁さん (香代子さん) も。
飯出 いやぁ、素敵だと思います。まぁ、言っちゃなんですけど、卓也さんは深津さんより全然真面目ですからねぇ(笑)。卓也さんは誰に似たんですかねぇ(笑)。
深津 そうですね。僕はあんまり真面目じゃないですね(笑)。僕は随分家内を困らせたりしましたからね。罪深い男です。
飯出 卓也さんは、いつもピーンとした感じだからちょっと心配してるんです。もっと悪くなった方が良いって(笑)。
深津 僕みたいにいい加減なことしなきゃだめだと(笑)。
▲玄関前で、深津禮二会長・初枝ご夫妻(右)と、深津卓也社長・香代子ご夫妻(左)。
飯出 深津さんの健康の秘訣は好奇心ですか?向上心?
深津 それはやっぱり両方あるでしょうね。
飯出 学問的好奇心ですかね。知識欲っていうのかな。
深津 あっ、これ見たいなって思うと、即行っちゃうんですよ。
飯出 夜行バス往復で奈良まで「快慶展」観に行ったですもんね。普通そんなん、若者だってやらないですよ。
深津 今朝、奈良からこちらに5時に着いたんです。でも、全然、平気なんです(笑)。病気はいっぱいしてるんですけどね。
飯出 結構、お話聞いてると満身創痍ですよね。
深津 満身創痍ですよ。大きい傷あるんですよ。去年も2回も手術して。
飯出 まぁ、そんなん全然感じさせないですけど(笑)。
…あとがき…
普通なら現社長の卓也氏にインタビューするところだが、ここではあえて卒寿を迎えた会長にお願いした。
私が深津さんにお会いしたのはいまから20年ほど前になろうか。
氏は業界の大先輩である吉田良正氏 (カメラマン、レジャー記者) が、これはと思った宿や店の経営者に声をかけて立ち上げた勉強会「吉田会」の創立メンバーのお一人で、その勉強会に参加させていただくようになってから、親しくお話をうかがうようになった。
その豊富な体験に裏打ちされた含蓄に富んだお話は、いつ拝聴しても新鮮にして重い。
卒寿を迎えて、ますますその好奇心、向学心、行動力は衰えを知らず、スマホを駆使し、中国語の学校へも通う日々。
氏にお会いするたび、自分などまだまだヒヨコだと痛感させられる。
それは痛快であり、快感でもある。
(公開日:2018年7月24日)
◆カテゴリー:湯守インタビュー