上越国境の赤谷湖畔に偉容を見せる、猿ヶ京ホテルの湯守の熱き思いに迫る
国道17号が赤谷湖畔にさしかかると、やがて前方の丘の上にひときわ立派な鉄筋6階建ての宿が見えて来る。
それが猿ヶ京ホテルで、温泉街では群を抜いた高層の建物だ。
温泉ジャーナリズムの世界では、この宿を有名にしたのは現館主の母上であると認識している。
三国路紀行文学館 (現与謝野晶子文学館) の創設、民話の語り部、独創的な豆腐懐石料理…一旅館の枠を超えた新機軸を次々と発案して、業界の注目を集めてきたからだ。
そんな文化事業も手がけてきた、上越国境の湯宿の歴史はどんなものだったのか。
その歩みを継承した3代目湯守に聞いた。
持谷 明宏 (もちたに あきひろ) /1965(昭和40)年12月23日、猿ヶ京温泉猿ヶ京ホテル桑原館 (当時) の長男として生まれる。地元の小学校を卒業後、中学・高校は前橋市の祖母の元から通学。群馬県立前橋高校から中央大学法学部に進学。大学卒業後は群馬銀行に3年間勤務ののち、帰郷して家業に入る。現在、代表取締役。1児の父。群馬県旅館ホテル生活同業組合常務理事、みなかみ町観光協会副会長、猿ヶ京温泉旅館協同組合長、猿ヶ京湯元泉協同組合代表理事などを務めている (2020年10月現在)。
猿ヶ京と命名したのは上杉謙信
飯出 もともと猿ヶ京温泉はいつからお湯が湧いていたと言われているんですか?
持谷 記録に残っているのは、江戸時代の1776 (安永5) 年 に「湯島温泉願」(開湯願い) という届けを役所に出して、湯小屋と温泉長屋というのを作ったみたいです。河原にあった温泉地だったのですぐ流されちゃってお湯が出なくなって、1791 (寛政3) 年にまた届けを出したようです。
飯出 なるほど。
持谷 ですので、江戸時代中期には記録があるということです。
飯出 でも、歴史的には上杉謙信が関東に侵攻してきたときに、猿ヶ京と言う名前をつけたと言われているんですよね?
持谷 そうですね。永禄3 (1560) 年に上杉謙信が越山をして猿ヶ京に来て、そのときに命名したと言われています。
飯出 猿ヶ京ってどういう意味でしたっけ?猿が出てきたんでしたっけ?
持谷 これは、江戸時代に真田の家臣で加沢平次左衛門という人がいまして、その人が書いた『加沢記』というのがありまして、沼田真田氏の家臣だった人でそんな詳しくはないんですけど、色々聞き書きで残した話があって。上杉謙信が初めて三国峠を越えてやってきて、猿ヶ京に泊まったときに夢を見たと。ある座敷に箸が1本あってお膳が並んでいて、気づいたら手の中に歯が8本落ちてきてびっくりして起きたと。戦の途中で変な夢を見たと家老に言ったら、「片っ端 (1本の箸) から関東八州は手に入る」という、いい夢だと。
飯出 なるほど~。
持谷 もともと猿ヶ京は宮野というところだったんですが、その日が申の年、申の月、申の日で、自分 (謙信)も申年生まれ。今日が申の日なので「猿ヶ京」と名付けようようと。それで猿ヶ京になったという話なんですけど。
飯出 ははは。その頃は、猿ヶ京というより湯島って言ってたんでしょ?
持谷 温泉のあったところは湯島です。川の流れの中で川の中島からお湯が出てたんで。川の中の中島のところに、それぞれ源泉がある桑原館、見晴館、長生館、湖の表側の笹の湯のところに相生館がありました。
飯出 湯島 (ゆじま) の湯って呼ばれてたんですか?
持谷 湯島 (ゆじま) 温泉とかですね。(法師温泉の) 岡村さんの持っている『上野鉱泉誌』に出てきてます。
▲猿ヶ京ホテルのエントランス。門をくぐると、庭園の植栽の中の道が玄関へと導く。
猿ヶ京を大変貌させた相俣ダム
飯出 結局、大きく変化するのは相俣ダム建設以後ですよね? でも、(相俣湖ではなく) 赤谷湖なんですよね?
持谷 相俣ダムだけど赤谷湖で、猿ヶ京のさの字もないんですけど(笑)。
飯出 ですよねぇ(笑)。赤谷川を堰き止めたから赤谷湖になったんですか?
持谷 (法師温泉の) 岡村さん家の前が法師川で、法師川が猿ヶ京にくると西川になるんですね。それと、(川古温泉の) 林泉さんのとこから流れてくる赤谷川が合流するところが相俣です。で、そこにダムを作ったので赤谷湖にしたんですよね。
飯出 赤谷湖とするのに揉めたりしたんですか?
持谷 多分、猿ヶ京の人は猿ヶ京を入れたかったみたいです(笑)。ダムの名前が相俣ダムで、相俣に小学校を作ったんですけど、そこを猿ヶ京小学校って付けて折り合いをつけたようです。
▲広々としたロビーラウンジ。ガラス窓越しに上越の山々を映す赤谷湖が美しく望める。
飯出 なるほど(笑)。それは何年の話ですか?
持谷 最初、群馬県で県知事が大手を振って作ろうとして、昭和33年には水を溜め始めたんですけど、水漏れ事故が起きて第2期工事に入ったんですね。なので、正式には1959 (昭和34) 年に完成ですね。
飯出 利根川水系のダムとしては、トップくらいに早かったんでしょ?
持谷 そうですね。計画自体は八ッ場ダムと同じくらいなんですけど、こちらの方がとっとと決まってしまったという(笑)。
飯出 で、そのときのダムによって、旧湯島温泉にあった宿は全部沈んだんですか?
持谷 全部沈みました。
飯出 やむなく、全部上に移したんですね?
持谷 はい。うちの家族は、旅館そのものは1928 (昭和3) 年に桑原館というのが設立されていて、それまで嶋屋とか清水屋とか言われていた旅館を、利根郡信用金庫を作った沼田の実業家の桑原恵助が温泉ごと買って桑原館と改称したんですね。持谷家は終戦直後の1946 (昭和21) 年頃に買ったそうです。
▲客室は赤谷湖を見下ろす部屋と谷川連峰を望む部屋がある。写真は和洋室の402号室。
飯出 そのときの持谷家はどこにいたんですか?
持谷 高田馬場で平和ホテルという宿をやったり、他にも事業をやってたみたいなんですけど。
飯出 それで、たまたま縁あって桑原館を取得することになるんですか?
持谷 そうですね。私の祖父が福利厚生系の仕事で都庁の外郭団体の所長をやってたみたいで、それを辞めてこちらへ来るんですけど。その前に祖母が先に来て始めたみたいです。で、10年経たないうちにダムの話で立ち退きになったという(笑)。
飯出 じゃあ、この場所に移したときは、持谷さんのとこで移したわけですね。そのときは木造3階建てだったんでしょ?
持谷 そうですね。1955~59 (昭和30年~34) 年がダムの建設でしたので、新しい館を作って移ってきたと。
飯出 そうすると、基本的にはおじいさんが初代で、お父さんが2代目、持谷さんは3代目になる?
持谷 そうです。
▲こちらは谷川連峰を望む山側の部屋から。山好きの人は四季折々の風景に魅了される。
飯出 お父さんは、この宿をやる前は他の仕事をしていたんですか?
持谷 いや、父は学生終えると即帰ってきてましたね。
飯出 ご両親のお名前は?
持谷 はい。父が順一郎、母が靖子。ちなみに、祖父は長一郎です。
飯出 ここに最初移ってきたときは、旅館は何という名称だったんですか?
持谷 ここに上がってきたときには「猿ヶ京ホテル桑原館」って言ってました。桑原館の名前は残しておかないとお客さんがわからないということだと思うんですけど。猿ヶ京ホテルにしようというのは祖父が考えて。
飯出 いつ桑原館は取れたんですか?
持谷 1972 (昭和47) 年に鉄筋6階建てにして、そのときに桑原館は取ったんだと思います。
▲赤谷湖畔を走る国道17号から望む、温泉街ではひときわ目立つ猿ヶ京ホテルの外観。
中学から前橋、高校までは野球に熱中
飯出 持谷さんは何年生まれですか?
持谷 1965 (昭和40) 年生まれです。
飯出 あ、じゃあ、子供のときに木造の桑原館だった時代を見てるわけですね。
持谷 そうですね、覚えてますね。
飯出 持谷さんここで生まれたんですか?
持谷 前橋の母の実家の近くの病院で生まれたんですけど。
飯出 小学校は?
持谷 猿ヶ京の小学校を出て、中学校と高校は前橋に行きました。
飯出 前橋ではお母さんの実家から通学してたんですか?
持谷 旅館の前橋案内所を兼ねた家があって、そこから通ってましたね。
飯出 前橋では誰が面倒を見てくれたんですか?
持谷 祖母が面倒見てくれてたんですけど、途中で亡くなってお手伝いさんが来てくれて。
飯出 なるほど、そういうことなんですね。お母さんは旅館につきっきりですもんね。大体、猿ヶ京ホテルって言ったら、女将さんの方が有名ですもんね(笑)。
持谷 え、有名なんですか(笑)。
飯出 特に、民話の語りはすごく有名でしたからね。与謝野晶子の文学館もこちらで建てたんでしょ? こちらのコレクションを展示してあるんですか?
持谷 もともとは、与謝野晶子じゃなくて三国路紀行文学館として建てて、途中で与謝野晶子の専門の文学館 (与謝野晶子紀行文学館) になりました。うちの祖父は都庁の役人だったもので、旅館の仕事をしている印象がほとんどないんですけどね(笑)、道楽人間というか。
飯出 なんか、水石を集めてるって言ってませんでした?
持谷 水石も100個くらいあるんですけど、今は全然、価値がないみたいですね(笑)。あと盆栽も好きで、自分でやらず人を雇って世話させて、あと本の収集もかなりしてまして。
飯出 その本も展示されてるんですか?
持谷 展示してる本はほとんど母が集めたようですね。与謝野晶子の初版本だとか。
▲大女将の持谷靖子さんは民話の語り部としてだけでなく、たくさんの著書もある。
飯出 お祖父さんは、文学志向じゃないんだ(笑)。
持谷 いわゆる自分で詩を作るとか(笑)。
飯出 趣味人だったんですね(笑)。お父さんは?
持谷 父はあまり趣味みたいなのはなくて。
飯出 そうなんですか、お父さんは家業一本なんですね。で、持谷少年は前橋高校のときは何をしてたんですか?
持谷 前橋高校のときは、軟式野球やってました。3年生のとき、県大会の決勝までいきましたね。
飯出 へぇ~、野球やってたんだ。で、大学は中央大学の法学部に進んだんですよね?
持谷 そうです。
飯出 優秀ですよねぇ。どこに下宿してたんですか?
持谷 代々木で。代々木ゼミの裏側辺りですね。
飯出 大学のときは部活はやらなかったんですか?
持谷 法学会というのと、考古学研究会っていうのに入って(笑)。
▲独立した浴場棟に内湯+露天風呂の「草の湯」と「花の湯」。19:30に男女交替制。
銀行で奥さんをゲットし、3年後に帰郷
飯出 考古学ですかぁ。で、大学卒業して群馬銀行に入行されたんですよね?
持谷 そうですね。で、横浜支店に赴任しました。横浜支店に2年、高崎支店に1年いて戻ってきました。
飯出 で、奥さん (美奈子さん) はそのときに知り合ったんでしょ?
持谷 そうですね。横浜支店のときに。
▲女将の美奈子さん。上越の土産品が並ぶ売店で「いいゆ!」をしてくださいました(笑)。
飯出 奥さんは結構酒豪だそうですね(笑)。しっかり者でお酒が強いという。
持谷 あぁ、秋田出身だからですかね、日本酒はダメみたいですけど(笑)。台湾行って、高粱 (コウリャン) 酒とかが強いです。それを、飲み干さなくちゃいけないってんで。酒は彼女の方が強いですね。
飯出 そりゃ、頼もしいですね(笑)。お子さんは?
持谷 娘が一人です。
飯出 一人娘は、旅館継いでくれそうですか?
持谷 いやぁ、どうですかね。かなり厳しい気がしますね。
飯出 まぁ、まだ、若いから。ところで、猿ヶ京ホテルは持谷さんから見て、どうですか? 結構巨大ですよね。今全部で何部屋?
▲木造りの湯船2つと岩風呂、サウナ付きの内湯。ほぼ同じ造りで、写真は「草の湯」。
持谷 今は49部屋。まぁ、もっと小さくしたいですけどね。
飯出 その数は、なかなか難しいですよね。持谷さんが戻って来てから手を入れたところはあるんですか?
持谷 ほとんど修繕の方ですね。浴場なんかも梁が傷んできたので天井張り直したりして。
飯出 ここ、源泉かけ流しにしてるじゃないですか。それはすごいと思うんですよね、この浴場の規模で。
持谷 それしかやり方がわからないというか、毎分150リットルくらいなんですけど。
飯出 それだけあればかけ流しできますね。お風呂大きいから大変かもしれませんが、そこはお湯が命なんで、頑張ってほしいですね。
持谷 頑張るしかないですね。
▲庭園風露天風呂もスケールが大きく、内湯とともに源泉かけ流し。写真は「花の湯」。
豆腐料理と自家製パンへのこだわり
飯出 豆腐料理はお母さん発案なんですか?なんで豆腐懐石になったんですかね?
持谷 もともと山っていうと川魚とか熊の肉とかが多いんですけど、割と一般のところではお豆腐を作ったり、この辺だと法事とかにがんもどきを作ったりするんですよ。なので、豆腐製品がご馳走なんですよね。
飯出 なるほどね。
持谷 沼田って天狗印の枝豆とか、大豆相場は沼田で決まるっていう業者さんもいるんですけど。地元ではにがりを自分で作って法事とか結婚式の料理にしたりして。母は民話をやってましたので、地元のおばあさんとかに聞いて食べさせてもらったりして、自分でやってみたいと思ったんでしょうね。
飯出 もう、何年くらいですか?
持谷 工場は1989 (平成元) 年に造ったので、もう30年以上になりますね。
▲夕食の献立「豆富懐石」のうちの一品「豆乳しゃぶ」。ヘルシーなメニューが好評だ。
飯出 パンも自分のところで焼いてるんでしょ?
持谷 パンは20年くらいですね。これも母の発案で、さすがに生地まで作るのは今はやってないですけど。
飯出 お豆腐は豆から職人さんが作ってる?
持谷 はい、元々ラーメン屋だったおじさんが10年間やってくれてるんですけど、もう引退したいっていう話なので、今は若手の方に切り替えてここ1ヵ月くらいは若手がやってくれてますね。
飯出 僕なんか豆腐と日本酒があればもうそれでいいぐらい、豆腐好きですね。予約制になるけど、販売もしているんですか?
持谷 そんなにも量はできないですけど、販売もできます。最近は大手の豆腐メーカーでも糖度の高い豆腐が出て、居酒屋でも甘いような豆腐って食べられてるじゃないですか。だからまぁ、そういうのに比べると普段食べる豆腐って感じなんですけどね。
飯出 良いと思いますけど、それで(笑)。豆腐ファンとしては、猿ヶ京ホテルの看板料理として、ますます豆腐料理に磨きをかけて欲しいですね(笑)。
持谷 そうですね(笑)。
▲朝食は和洋のバイキング形式。館内の工房で焼く、焼き立てパンもこの宿の名物の味。
コロナ禍中で思ったこと
飯出 今、猿ヶ京ホテルの課題はなんですか?コロナの影響とか。
持谷 コロナは大変ですよねぇ…。
飯出 コロナ禍になってみて、何を一番強く感じました?
持谷 まぁ、普段無駄なことをやっているなと。いろんな会に属しているんだなぁというのは、改めて思いましたね。ちょっと会合がありすぎるなという。
飯出 なるほど。
▲貸切風呂は「桜の湯」(写真、50分2200円)と「楓の湯」(50分3300円)の2ヵ所。
持谷 旅館の親父って会合だけで1日つぶれちゃって。ここから2時間かけて行って会議やってたらねぇ。
飯出 それだけ、そういう役というか、やらざるをえない感じになる?
持谷 やるのが当たり前になっているのはあるんですけど。義理人情みたいな感じで出たりとか、出ないとあいつのところヤバいんじゃないかとか言われたりですね(笑)。
飯出 今、役はどのくらいやってるんですか?
持谷 僕はそんなにはないんですけど、猿ヶ京温泉旅館協同組合長、猿ヶ京湯元泉協同組合代表理事、みなかみ町観光協会の副会長、群馬県旅館ホテル生活同業組合の常務理事ですかね。
飯出 色々やらされてるんですねぇ、十分多いと思いますけど(笑)。こちらのお宿はコロナになる前は外国のお客さんは結構来てたんですか?
持谷 そんなには来てないですね。5%未満ですね。国内は個人旅行で家族単位が多いですが、これが段々緩和されていくと思うんですけど。
▲赤谷湖を望む広々とした食事会場。ほかに、グループ客に対応する個室会場も完備。
飯出 持谷さんはあんまり悲観してない?
持谷 あまり悲観していませんね。構造自体が変わっちゃう感じがしますけど。今は、県内の「愛郷群馬プロジェクト 泊まって応援キャンペーン」というので来てくれてますね。
飯出 県で5000円のうちの4000円を負担し、1000円は旅館で持てってやつですよね?で、旅館で負担する1000円は、とりあえず宿で立て替えておけってやつでしょ?
持谷 そうです(笑)。しかも、30万泊いったら終わりみたいな (実際は32万7000泊の利用者があったそう)。
飯出 行き渡らないお宿もあるわけですよね。集中するお宿もあるだろうけど。
持谷 こういったキャンペーン、どこの県も始めましたよね。
飯出 山形県なんかは早かったですね。ちょっと様子見るしかないですかね。
持谷 そうですね、個人旅行に比べて、マスツーリズムの方が立ち直るのに時間がかかると思いますね。
飯出 いずれにしても、コロナは1日も早く終息してほしいですよね。
…あとがき…
コロナ禍の最中だったが、緊急事態宣言が解除されてから、東京都の外出自粛要請には目をつぶり、上越の山にいくつか登った。
「温泉百名山」選定のために、今年中にどうしても登っておきたかったからである。
山中は登山者も少なく密状態は皆無だったが、下界ではそうもいかず、東京ナンバーの車に向けられた視線は鋭く冷ややかだった。
特に新潟県での拒絶反応は顕著で、粟ヶ岳から下山したところにある日帰り温泉施設では「5都道県在住の人はお断り」の貼り紙がしてあり、やむなく猿ヶ京ホテルに急遽電話して群馬県側に戻ることにした。
夜遅い到着になった猿ヶ京ホテルでは快く迎えていただき、このとき入った温泉ほど有難く感じたものはなかった。
このとき、持谷さんと一献やりながら懇談させていただいたのを機に、6月中に湯仲間たちともう1泊することになった。
夫唱婦随? それとも婦唱夫随?
素敵なご夫妻に会いに、また足を運びたい宿の一軒である。
(公開日:2020年10月27日)
◆カテゴリー:湯守インタビュー