古民家風にして民芸調の老舗宿を率いる、食と酒に頑固なまでにこだわる粋人
松本市郊外の山裾にある美ヶ原温泉は、天平時代の開湯ともいわれる信州を代表する古湯だ。
その閑静な温泉街の路地に面して、風格漂う木造3階建ての宿を構える「旅館すぎもと」は、知る人ぞ知る「食通をうならせる佳宿」との評価が高い。
頑固なまでに食と酒の追求にかける「きわめ人」の極意に迫るインタビュー。
花岡 貞夫(はなおか さだお) /長野県松本市・美ヶ原温泉「旅館すぎもと」6代目館主。食全般、日本酒・ワイン、オーディオなど多方面にわたって造詣が深く、多才な趣味人としても自他ともに認めるところ。そのこだわりも半端でなく、毎夜公開される蕎麦打ちのパフォーマンスや陣頭指揮を執る斬新な創作料理を楽しみに訪れる客が多い。松本法人会副会長、美ヶ原温泉旅館共同組合専務理事、JR旅連松本支部支部長、「日本味の会」幹事等を歴任。
飯出 僕が最初に花岡さんに会ったのは、何年前になりますかねぇ?
花岡 もう10年は超えてますよね。
飯出 ですよね。吉田良正さん(※元日刊スポーツのカメラマン兼レジャー記者。取材した宿や店などの中から、これはと思う人のネットワークを作り、宿と料理等の勉強会「吉田会」を主宰して50年以上。温泉達人は十数年前から会のお手伝いをしている)に連れられて「旅館すぎもと」にお邪魔したのが、花岡さんにお会いした最初ですもんね。会員のメンバーはすごい人ばかりですが、吉田さんは協調性があるかどうかを会員の第一条件にしてますけど、基本的には好きか嫌いか、自分の感性に合ってるか合ってないかで判断する人なんで(笑)。しかし、吉田さんの人の見る目や味覚というのは、すごいですよね。
花岡 今だに先生(吉田さん)から、借り物いっぱいあるんですよ。
飯出 もともと、吉田さんは「田部歩(たべあるき)」をペンネームにしたほどの食いしん坊で、こういうオーディオも大好きな人ですから、花岡さんと出会われたのは、いわば必然ですよね。でも、花岡さんのこだわり方は、ひとつのことだけじゃないんですよね、とにかく半端じゃない。
花岡 いやいや、そんなことないです(笑)。
飯出 お蕎麦だって、あらゆるところを食べ歩いて。もう、それはうるさいっていったほうがいいですよね(笑)。
花岡 いやいや、そんなことありません(笑)。
美ヶ原温泉の歴史と現状
飯出 花岡さん、ここはもともと「束間(つかま)の湯」って言ってたんでしょ?
花岡 そうですね。天平時代から。
飯出 天平!? はぁ~、ってことは、もう1000年以上…。
花岡 『古今和歌集』にも載ってるって話なんですが。私も確かめなきゃいけないんですけども。
飯出 開湯は天平時代といわれていると。で、誰の発見ですか?天平時代というと、行基とか?
花岡 ちょっと書きものがあるんですよ。
飯出 ここに書いてあるんですか。壬申の乱、大海人皇子?その辺から出てくるわけ?
花岡 郵便局が地元の歴史を記録するっていうんで、郷土史なんですけど。
飯出 もう、こういう文献があるわけですね?その歌が『古今和歌集』なんですか?
花岡 そうですね。
飯出 なるほど。で、もともとここのお宿は何年に創業したといわれてるんですか?
花岡 それが難しいんですよね。もともと、「山辺茶屋」っていう湯小屋があって、それは城主の管理で、保養所だったんですよ。
飯出 城主っていうと?
花岡 松本藩主ですね。その後、明治になってから、ここが筑摩県っていう場所だったんですが、ここを貸してくださいとお願いを出したのが最初ですね。で、認められて、お宿を始めたっていう。で、5人でそのまま借りたままだったと。
飯出 5人で…。
花岡 ここの下から上まで5軒まとめて全部が「御殿の湯」っていう保養別荘だったんですよ。ところが、昭和の最初に火事で燃えちゃったんです。で、5人で借りてやってきて、一回なんとかしようとしたんだけど上手くいかないんで、5人でその土地を分けようということで、昭和8年にバラバラになったんです。
▲裏手の展望台から見た美ヶ原温泉街と松本市街、常念岳方面の山並み。
飯出 そのときに初めて、「寿喜本(すぎもと)」って名前に?
花岡 えぇ。
飯出 「寿喜本」って、どこからきたんですか?
花岡 屋号ですね。
飯出 で、その頃も「束間の湯」っていってたんですか?
花岡 はい。で、細分化してここは「湯ノ原」という名前になったんです。それが「山辺温泉」の湯ノ原という名前だったのは昭和30年くらいまでで、大きいところが「藤井」といって、小さいところが「おぼけ」というところで、3つ合わせて「山辺温泉」って呼んでいたわけです。
飯出 その中のここは、「湯ノ原」っていうところだったんですね。
花岡 はい。ただ言い方悪いけど、あんまり栄えている温泉じゃなかったのね。湯治場そのままを継承していた。その頃、隣の浅間温泉の景気がよくてね。松本は農民のみなさんがお蚕さんを作ってて、お米とお蚕やってるんだけど、お蚕は諏訪に片倉っていう大きな製糸工場があったんだけど、そこでお金に換金するんですね。で、お金になって帰るじゃないですか。一年よく働いたなぁと。歩いて帰る途中に浅間温泉に寄って、芸妓さんと大騒ぎして帰って来るっていう流れがあって、浅間はそれで栄えたんですけど、こっちは残念ながら何にもないんですね。何とかしなきゃってときに、名前が少しおかしいじゃんって話になって、隣が「浅間」だったから「美ヶ原」にしようって、そんな程度です。
▲重厚な松本家具が目を引くロビー。オーディオからは音響抜群の曲が流れる。
飯出 「美ヶ原温泉」にしたのは何年頃なんですか?
花岡 昭和30年代です。
飯出 で、その城主の保養所だったところを5人で借りてというのは、花岡さんの先代?
花岡 僕の6代前の人が借りたんですよ。
飯出 それは親戚?
花岡 というか先祖です。これを建てたのは、それからあとの3代目の人で、僕からすると曾祖父っていう。
飯出 というと、花岡さんは6代目?
花岡 そうです。
飯出 じゃあ、生まれたときには後継ぎという宿命を背負っていたわけですね?
花岡 まぁ、そうですね。かわいそうに(笑)。
飯出 現在の美ヶ原温泉には源泉は何本あるんですか?
花岡 いま使用しているのは第2、3、4、5号源泉。湧出量は毎分378.2リットルと多くはなく、それを15軒の旅館と共同浴場「白糸の湯」に配湯するので、集中管理しています。
飯出 なるほど。その湯量だとあまり贅沢な湯づかいはできませんねぇ。
花岡 そうです。かけ流しにするのには難しい湯量ですね。
▲小石を敷き詰めた風情ある貸切露天風呂は庭師の作品。30分2000円で何人でも可。
鍛えられた立教大学ホテル研究会時代
飯出 花岡さん立教大学文学部卒ですよね?
花岡 えぇ。でも、何もやってない。洗礼も受けてないし(笑)。
飯出 へぇ〜、観光学科じゃないんだ。
花岡 そうなんですよ。うちの学校面白いんですよ。別に観光学科じゃなくても、最低限の指導要綱のものはとらないといけないんだけど、それ以外のものは全部振り替えができるんですよ。キャンパスも今みたいに新座キャンパスが出来てなくて、池袋キャンパスの中で済んじゃうから、僕みたいに観光とってるやつもいたし、経済とってるやつもいましたね。
飯出 部活みたいなのもやってたんですか?
花岡 えぇ。おかげさまで、入れてもらったのがホテル研究会ってやつで。そこの半分くらいのメンバーが観光学科かな。
飯出 そうそう、和倉温泉の加賀屋さんのご夫婦も…。
花岡 ホテル研究会の先輩です、お二人とも。ここの隣の浅間温泉の老舗「ホテル小柳」の三浦先輩は、うちの先輩だったんだけど、卒業名簿にないもんですから、ずっと後になって判った。あと、鳥羽の「戸田家」さんのお二人も先輩なんですよ。
飯出 あちこちに、いらっしゃるんですね。花岡さんは、立教大学卒業した後、すぐここへ戻ったわけじゃないんでしょ?
花岡 いえいえ、すぐ帰ってきましたよ。
飯出 あ、そうなんですか?
花岡 平成元年の前は、修学旅行の団体とかも受け入れていたこともありましたね。
飯出 花岡さん、料理はどこで?
花岡 いやぁ、何もしてない(笑)。
飯出 自己流?自分で勉強?
花岡 そう。まぁ、食べ歩くことはしてましたけどね。
▲蕎麦打ちの実演は軽妙な解説が炸裂する“花ちゃんのワンマンショー”。
飯出 その頃、板前さんは?
花岡 いました。まぁ、5年だけ。
飯出 で、花岡さんが戻ってきてから自分でやるようになったんですか?
花岡 っていうのはね、帰ってきてから1、2年後、板前が脳溢血で倒れて、そのまま亡くなったんですよ。で、交替はいないし、しょうがないからって始めたんですよね。
飯出 花岡さん、調理師免許なかったんでしょ?
花岡 だって別に関係ないですもん。
飯出 あ、そうなんですか?
花岡 えぇ、免許持ってたって関係ないですよ。免許なくてもできます。ここを仕切れる衛生管理をできる資格を持っている人がいれば。
▲打ち上がった蕎麦は絶品。すぐに食べないと、花ちゃんのカミナリが落ちる!
飯出 で、前の板前さんが倒れて亡くなって、急場凌ぎのような感じで花岡さんがやるようになって、そのままずーっとやってるわけですか?
花岡 そう、そのままずーっとやってる(笑)。
飯出 いやぁ、ものすごい勉強されてますよねぇ。
花岡 いや、勉強なんかしてない(笑)。食べるだけ、飲んでるだけ。
飯出 それで、あんな立派なBarまで造っちゃったわけですか。
花岡 自分で飲みたいから(笑)。あそこは以前、お風呂場だったスペースなんだよね。
▲花ちゃんの本領発揮、磨き抜かれた趣味と遊び心いっぱいの洗練されたBar。
飯出 大学のホテル研究会で、そういう勉強もしたわけですか?
花岡 いやぁ、そこまではないですね。でも、3年生まで大学の学園祭があったから、第一学食ってあるんだけど、ホテル研究会でタダで貸していただけるっていうのがあって、どういうふうになってるかわからないけど、昔の慣例で。それで、普通だったら模擬店なんだけど、一応ホテル研究会なので、指定ホテルのコーヒーショップのレベルくらいまではしようと。食べ物、飲み物も。で、そのときホテルはものすごく良い時代だったっていうか、当時のホテルって宿泊はどうでもいいんですよ。泊まるんじゃなくて宴会すれば、宴会の売り上げがものすごい時代で。毎日宴会があるわけですから。なので、ホテル研究会でお皿とか、カトラリーとか、100個貸してくれって頼んでも問題ないんですよ。
飯出 へぇ。
花岡 で、ホテル研究会で、タダで借りてきたっていうか、もらってきたっていうか。だから、ほとんどお金かからなかった。生鮮食料品の食べ物っていうのはお金かかったんだけど、そうじゃないのはほとんどタダだし、人件費もかからない。僕らそのころの研究会は120人くらいいたんですよ。当然4年生はやらないけど、約80~90人は現役としていたわけ。で、そのうち10人くらいが研究発表、あとの70人は中で働けるわけですよ。そのときの役割で、僕はコックにされちゃったんですよね(笑)。
飯出 花岡さんが、コックに?
花岡 えぇ、そうなんです。で、厳しい店長がおりまして、いかに稼ぐかってことに徹底してた(笑)。他の学校と差別化しないといけないっていうんで、冷凍食品を使わないで、クオリティー高いものを作らないといけないと。ピザなんかは、生地から作りました。冷凍の生地でも600円くらいで、結構するわけ。当時、世間ではピザは1400円くらいで売ってたんだけど、文化祭なので学校からなるべく安く売れといわれて、価格は800円くらいで販売しなきゃいけない。で、何をしたかっていうと、一番原価の高い生地を作ってしまおうと。東武デパートの中に「ジロー」が入ってて、そこのオーナーが我々の先輩なんですよ。で、修業に行かせてくださいって頼んで、冷凍じゃない生の生地作りました。日清製粉にも先輩がいまして、大学で日清製粉を宣伝しますからっていって、粉もタダになった(笑)。毎日、ピザを150枚くらい作ってましたね。
飯出 ははは。その辺から土壌があったわけですね。
▲のんべえにはこたえられない、みごとな酒の肴の逸品が並ぶ前菜の数々。
修学旅行生を迎えていた頃
飯出 ここ引き継いだときに、お父さんもお母さんもいたわけでしょ?この建物になったのは花岡さんの代になってからなんでしょ?
花岡 いやいや、もともと母体はあったんですよ。客層が変わったっていうか。修学旅行の団体がなくなったんですね。平成になる2年くらい前、その頃、最高に売り上げがあったのは10月の修学旅行の時期だったんですね。月に2日くらいしか、来ない日はなかったんじゃないかな。当時は修学旅行先が九州か京都だったのを、旅行会社がどんどん変化させていった。面白いのは、九州の学校は500人単位なんだけど、例えば大分からだと、夜フェリーで神戸に着いて、その日のうちに金沢、宇奈月くらいまで行っちゃうんですよ。で、朝いろんなものを見せながら、次の日、黒部峡谷のトロッコ列車から下りて、うちまで来る。で、うちでご飯を出して、泊まって、次の日はディズニーランド。
飯出 もう、ディズニーランドはあったんですか?
花岡 ありました。できて、まもなくですね。で、どっちかっていうと子どもより先生が行きたいんだよね。京都だけじゃなくて、船乗って、トロッコ列車にも乗って、アルプスを眺めたりして、それからディズニーランド行って帰るという。値段も割安で出したんじゃないかと思うんだけど。
飯出 へぇ。
花岡 年寄りはそんなんしたら疲れちゃうかもしれないけど、若い子はそんなん関係ないんですよ。盛りだくさんで楽しいじゃないですか。距離も日本の半分以上回っちゃう感じでしょ。そんな時代があって、結構モテたんですね。
飯出 すごいですね。
花岡 で、校長先生がかなり仕切ってる大分県のある私立の学校があって、大分のJTBの業務課長がそこの出身だったのね。普段、業務課長は添乗をしないんだけど、でも校長先生からお前が行かないなら嫌だって言われたら行くわけですよ。で、その学校は8年くらいうちに来てるんですよ。あれは平成になる2年くらい前だったかな、夜10時過ぎに、JTBの業務課長から校長先生の部屋に「花岡さん、つまみ作って、あんたも付き合え」って言われたんですよ。で、一緒に飲ませていただきながら話をしたら、校長先生が「今までの修学旅行から変化して、スキーの修学旅行が最近流行ってる」っていうんです。それは、なんで良いかっていうと、先生たちって連れて歩くのって大変なんですよ。結構ワルも多いわけで。スキーがありがたいのは、連れて行ってスキーのインストラクターの中に放り込んでしまえば手がかからない。ワルのいるグループにはなるべく厳しいインストラクターをつけて、リフト乗せないでほとんど歩かせるわけですよ。さすがに身体はいくら若いといってもね。クタクタでぐっすり眠るわけでしょ。夜は静かになるし。一石三鳥くらいなんです(笑)。
飯出 なるほど(笑)。
花岡 で、その学校もそろそろ考えてるってわけですよ。学校だから、今年やってすぐってわけではないけど、今そんな噂が出てきてるので、ひょっとしたら2、3年後はそういう可能性があるっていうわけですよ。校長先生がさんざん世話になって申し訳ないんだけど、可能性があるんだったら伝えておいた方がいいんじゃないか、っていう。
飯出 つまり、ここはコースからはずれちゃうってことですね。
花岡 えぇ、そういうことですね。そのことを2年前に教えていただいたんです。それで、うちみたいに芸妓さんがいないところは団体客は難しいし、個人のお客さんしかないかなと。だから、そういうことになっちゃったって話なんですけど。
飯出 そこからガラッと今みたいに変わられたんですね。
花岡 えぇ。そうしないと無理があるかなと。
飯出 修学旅行を受け入れていたというのは、一年中?
花岡 一年中ではないですけど、シーズンは決まっているから。5〜8月くらいは、東京とか近県ですかね。でも、それはパイが小さいんですよ。九州の紅葉時期の9~10月が一番多い時期でしたね。九州の学校ってでかいんですよ。最低500人、10クラスくらい。
飯出 固まってくる?
花岡 そう、固まってくる。ここは、一軒では無理なんで、分宿になるのかな。うちと隣2軒とか。
飯出 その頃、すぎもとには何百人くらい泊まれたんですか?
花岡 うちは、マックスで250人くらい。
飯出 そんなに…。
花岡 その頃は色々やりましたよ。餅つきやったりとかね。あとは、その頃の修学旅行で出るものって幕の内弁当みたいなもんなんですよ。レトルトとか冷凍の。あんまりいただきたくないよねぇ。で、その頃安く仕入れられる信州牛があったんで、僕とかうちの連中を鍋奉行がわりにして、鍋を作って食べさせてあげたんです。お鍋を一回食べさせた後に、最後にうどんを入れた。冷たいものよりも温かいものを食べてほしいなぁと。
飯出 ちょっと、いい話じゃないですか(笑)。
▲日本の贅沢な朝食はこういうものかと感嘆させられる、考え抜かれた朝食の献立。
古民家再生の技が生かされた最初の宿
飯出 こちらの建物は、古民家再生の流れを汲む方が作ったんですよね。白骨温泉の「小梨の湯笹屋」さんとかも。
花岡 そう、笹屋さんもうちも降幡先生がやってますね。うちのは、降幡先生のお弟子さんが設計図を描いてます。
飯出 降幡先生は古民家再生のオーソリティですよね。そこのお弟子さんに設計図を描いてって頼んだんですか?
花岡 いや、ここは面白いんです。昭和38年にリニューアルしたときには降幡先生ご本人が描いたのね。実は、降幡先生はうちのお袋の兄貴が高校の同級生で、そのときに関わりがあったもんだから、うちの叔父貴が絵ぐらい描いてもらえよって描いてもらったのが降幡先生だったんです。普通は住宅を手がけているんですけど、商売している宿の設計を描いてもらったのはうちが初めてなんです。昭和38年のときは、ここは土台が悪くて基礎を全部打ち直してるんですね。今だに先生が言うんですけど、昔お世話になって悪かったねぇって。結局、家持ち上げて基礎打ち直すとほとんど新築と変わらないんですよ。
飯出 なるほど。そっちの方が費用的にも大変なくらいなんでしょ?
花岡 まぁ、そうなりますね。
▲客室の調度品も見事な逸品揃い。写真は客室「女鳥羽」のリビング。
飯出 リニューアルして、今の宿になったのは何年くらい?
花岡 平成元年ですから、ほぼ30年になりますね。
飯出 なるほど。その甲斐あって、いまでは風格が出てきましたものね。国の登録有形文化財には申請しないんですか?
花岡 そんなこと、考えたこともないなぁ(笑)。
飯出 そうなんですかぁ。十分、資格があるように思えますがね。
花岡 だって、そんなの、めんどくさいじゃないですか(笑)。
…あとがき…
花岡さんをよく知る人だけでなく、当のご本人も自分のことを「花ちゃん」と呼ぶ。
なので、ここでは親しくそう呼ばせていただくが、とにかく花ちゃんの食と酒に対するこだわり、探求心は半端ではない。
それを語り出すと留まることを知らず、まさに立て板に水、雄弁を通り越して饒舌と言ってもよく、その姿はまるで求道者を思わせる。
したがって、「旅館すぎもと」の食膳に供される繊細にして大胆な創作料理の数々は、もはや温泉旅館のレベルではなく、割烹旅館、料理旅館と呼ぶにふさわしい。
そのこだわりは家具調度品やオーディオ、Barや庭の意匠にも発揮される。
まさに趣味人にして粋人の面目躍如、「花ちゃんワールド」全開である。
美味しいものが食べたい、旨い酒が呑みたいと思ったとき、信州松本の「旅館すぎもと」が真っ先に頭に浮かぶ。
誠に不遜ではあるが、ことこの宿に関しては料理と酒の魅力が温泉を凌駕していることを白状せざるをえない(笑)。
ここまでのレベルに到達した父親を持った後継者は大変だろうなぁ、とちょっと心配になる。
まぁ、余計なお世話、杞憂ではあろうが…。
(公開日:2017年11月25日)
◆カテゴリー:湯守インタビュー