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Vol.33/一里野高原ホテルろあん・山崎 太一朗

開湯の苦闘物語『湯の道よ永久に』を胸に刻む、3代目湯守の熱き思い

白山一里野温泉は、白山岩間道の奥、岩間噴泉塔で知られる泉源からの引湯だ。
その距離約10km。
地形も険しいが、開湯までの苦闘はさらに険しいものだった。
主人公は祖父山崎信一、その苦闘の歴史を綴った398頁に及ぶ力作『湯の道よ永久(とわ)に 』の著者は山崎久栄。
信一の姪で養女となった、山崎太一朗さんの母である。
白山一里野温泉で「一里野高原ホテルろあん」、さらに泉源近くにある秘湯の岩間温泉で「山崎旅館」を経営する3代目湯守の、祖父母や両親を偲びつつ、熱い思いを語り尽くしたインタビュー。

白山一里野温泉ろあん・山崎太一朗さん
山崎 太一朗 (やまざき たいちろう) /1970 (昭和45) 年2月23日、石川県尾口村尾添で山崎正夫・久栄夫妻の長男として生まれる。地元の小・中学校から金沢市内にある星稜高校を経て、大阪経済法科大学に進学。卒業後はアメリカに留学3年、帰国後に東京で3年働いたあと呼び戻され、29歳で帰郷して家業を継ぐ。現在、白山一里野温泉「一里野高原ホテルろあん」と秘湯の岩間温泉「山崎旅館」を経営し、地域のオピニオンリーダーとしても精力的に活動する。「日本秘湯を守る会」中日本関西支部北陸地区理事、白山一里野観光協会理事、白山市尾添区役員 (2022年1月現在)。

 


温泉引湯に命を懸けた祖父、信一の存在

飯出 今回、インタビューする前に『湯の道よ 永久に』をもう一度読んできたかったんですけど、全部は読み切れませんでした(笑)。

山崎 ありがとうございます、そこまでしていただいて。

飯出 このような記録を残されている宿は希少だし、それでなくても非常にドラマチックな歴史ですよね。私はこれを読んで、いずれは湯守インタビューをさせてもらいたいとずっと思っていました。前に一度『温泉批評』で若干紹介させてもらったこともあるじゃないですか。

山崎 その節はありがとうございました。あの機会に旅ペン (日本旅のペンクラブ) に入らせていただいて。

飯出 山崎さんはお祖父さんの信一さんのことは知ってるんですか?生まれた年に亡くなられてますよね?

山崎 5ヶ月だけ会ってますね。僕が2月23日に生まれて、祖父が7月23日に亡くなりましたので。祖父が僕を抱っこしている写真が1枚だけ残っています。

飯出 初孫で男の子ができたから、すごい喜んだそうですね。自分のお子さんがいないということもあって。

温泉達人・飯出敏夫

山崎 さすが、よくご存知ですね(笑)。

飯出 お母さんは姪で、養女に迎えられたわけでしょ?

山崎 そうなんです。父 (正夫さん) も婿として来たという家庭なので、感慨深いものがあったんだと思います。

飯出 山崎さんはお祖母ちゃん子だったって書いてありましたけど、美津子さん (信一さんの妻) のこと?

山崎 お祖母ちゃんは、母方と父方と戸籍上の祖母 (美津子さん) の3人いました。父方の祖母は車で1分くらいのところにいたんですけど、母方の祖母 (さとさん、母の久栄さんの生みの親で信一さんの姉) がよく面倒を見てくれました。彼女は山崎旅館の売店で働いていて、のちに山崎旅館に行かなくなった後も、祖母 (美津子さん) が岩間温泉に夏の間行っている間、金沢から半年間僕らの面倒を見るために一里野に来てくれてました。なので、両親は仕事で多忙だったので、その時期はさとお祖母ちゃんと一緒にいましたね。

飯出 本を読むと、山崎旅館もかなり繁盛した時期があって、その後に山崎旅館からここにお湯を引いて白山一里野温泉を開発するわけじゃないですか。その開発したときに、この一里野高原ホテルを作られたんでしょ? で、このホテルはもっぱらお母さん (久栄さん) が頑張ってやっていて、山崎旅館はお祖母ちゃん (美津子さん) がやっていたんですよね?

山崎 はい。で、父 (正夫さん) が山崎組という建設会社をやっていて。

飯出 山崎組は今も下の集落に看板ありましたけど、今は山崎さんの弟さんがやってるんですよね?

山崎 はい、僕は4人兄弟なんですけど、一番下がしっかりやってますね。

飯出 弟さんが2人、妹さんが1人でしたっけ?

山崎 そうです。もう1人の弟も、別の会社で建設関係の仕事をしてます。

一里野高原ホテルろあん/外観
▲冬は豪雪に埋まる白山一里野温泉の中心部に建つ「一里野高原ホテルろあん」の外観。

 

高校は金沢、そして大阪、アメリカ、東京へ

飯出 山崎さんは、小・中学校は尾口村の学校に通ったんですか?

山崎 そうです。瀬女 (せな) という、いま道の駅があるところ。ここからスクールバスで通ってました。

飯出 この場所で生まれたんですか?

山崎 小学校2年生のときにここ (一里野) に来ました。それまではこの下の尾添 (おぞ) という集落に住んでました。45年ほど前にこのホテルを建てた際、ホテルの中に自分たちの部屋を設けて、ここに移り住んだんですけど。

飯出 山崎さん、高校は?

山崎 金沢市内の星稜高校というところで、母方の実家 (さとお祖母ちゃんの家) が近くにあったので、そこに下宿して通ってました。

飯出 へぇ~、松井秀喜さんの出身校ですね。

山崎 はい。僕は3年間、そこでさとお祖母ちゃんと過ごして、僕が大学2年生のときにさとお祖母ちゃんが亡くなったんですよ。なので、最後の3年間を一緒に過ごしました。

一里野高原ホテルろあん/ロビー
▲冬は薪ストーブが赤々と燃えるロビーは、ゆったりとくつろげる憩いのスペースだ。

 

飯出 大学はどちらへ?

山崎 大阪経済法科大学というところで。ここは行くところがなくなった受験生の駆け込み寺的な大学で、当時は誰でも入れました(笑)。大学を卒業してから友人の影響もあり、アメリカに行きたいと言い出しまして、親にお願いして3年間アメリカに留学しました。

飯出 3年もアメリカに行ったんですか?

山崎 本当に親には迷惑をかけっぱなしで。兄弟が多かったので大変だったと思います。

飯出 3年の留学を終えて、東京で働いたの?

山崎 とにかく戻って来いと言われたんですが、まずは東京で働きたいということで池袋のビジネスホテルやダスキンなどで3年働きました。で、もうそろそろ戻って来いと散々言われて、29歳のときに観念して戻って来ました。

一里野高原ホテルろあん/色浴衣
▲ロビーの一角に設けられた色浴衣コーナー。無料で貸し出されるので女性客に好評だ。

 

帰郷後次々と身内の不幸に見舞われて

飯出 帰ってきて、しばらくしてお父さんが亡くなった?

山崎 帰ってきて1ヶ月くらいで、父が静岡の出張先で倒れて近くの病院に運ばれて。親戚のおじさんとすぐに向かって、とりあえず意識は少し戻っている状態ではあったんですけど。それが病気の始まりで、その後、父がことあるごとに倒れるようになったんです。

飯出 最初は何の病気かわからなかったけど、最終的には脳腫瘍だったんですよね?

山崎 えぇ。

飯出 お父さんより、山崎旅館の美津子お祖母ちゃんの方が早く亡くなったの?

山崎 そうです。父が最初病気になって、その後母が乳ガンですぐ手術してという話になって。僕が帰ってきたらそんなことばかり始まって。で、祖母 (美津子さん) も老衰に近くなってきた感じで施設に通い始めたんですけど、87歳で亡くなりました。

飯出 美津子お祖母ちゃんは何歳まで山崎旅館をやってたの?

山崎 84歳まで現役でやってました。

岩間温泉・山崎旅館
▲白山・岩間道登山口に建つ秘湯宿、岩間温泉・山崎旅館 (2022年4月現在、休館中)。

 

飯出 はぁ、すごいですね。美津子お祖母ちゃんがもう宿をできないとなって、それで山崎旅館は閉めたの?

山崎 降りてきて、3年はやったんですけど、祖母が亡くなった年が豪雪で、宿が痛んだので今年は無理という話になって。それから7年間、閉めたままになってました。

飯出 いやぁ、7年後に山崎旅館を建て直すという執念がすごいですよね。

山崎 まぁ、立派なものかわかりませんけど。閉める1年ほど前に「日本秘湯を守る会」に入れていただいたんですけど、会員宿の紹介本に載ったときには閉めていて…。秘湯を守る会の皆さんにも心配していただいたんですけど、進められなかったんですよね、その間に父と母が悪くなっていくので。もうあのままやらないんだろうとみんなに思われていたんですけど、僕の中ではそんな思いは一切なく。とにかく少しずつ進めてはいたんですけど、父が亡くなり、母が亡くなって…。とにかく、山崎旅館は復活させないといけないという…。

飯出 使命感ですかね。

山崎 そうですね。

岩間温泉・山崎旅館/山崎信一さんの銅像
▲山崎旅館の庭先には「湯の道」を見守るように山崎信一氏の胸像が建立されている。

 

大作『湯の道よ 永久に』の誕生秘話

飯出 山崎旅館の復活とともに、もう一つの懸案だった『湯の道よ 永久に』の刊行も大変な作業だったでしょ?

山崎 はい、とにかくこの本を刊行しなければと。やっぱり、これも使命感でやりましたね。この本は結局、刊行まで4年もかかっちゃったんですけど。

飯出 執筆はライターの方に頼んでやってもらったんでしょ? ライターの名前出てこないですね。

山崎 それには訳があってですね、最初は事務所経由でライターのKさんという方をご紹介いただいて、母にインタビューして書いてもらって、初稿をあげていただいたんですけど…。

飯出 気に入らなかった?

山崎 気に入らないというか、ちょっと違ったんですよ。良い部分もあるんですけど、足りないと思ったんです。構成も配慮があって時系列ではなかったんですけど、僕としては一つのストーリーというかドキュメンタリーだと思ったので、時系列に並んでいるべきだなと思って。その後、Kさんに希望を伝えたんですけど、埒があかなくなってきて、やりとりしているうちにKさんが怒ってしまったんですね。で、もう僕がやりますという形になって、そこからひたすら僕がやることになったんですけど。最終的に2倍くらいの頁数になって完成したときに、素人が書いた文章なのでプロに見ていただきたいと思って、Kさんにチェックをお願いして、最後は多少直しました。

飯出 なるほど。

山崎 当初はKさんの名前を出すつもりでいたんですけど、私が書くということになった際にKさんの名前は出さないでと言われたのですが、私が最終的に書き上げてKさんに校閲を依頼した際に、Kさんの方からここまで関わったので、そのことは自分の経歴には加えさせてください、ということになりました。

湯の道よ永久に
▲引湯までの苦闘の歴史を物語る『湯の道よ永久に』は館内の売店でも購入できる。

 

飯出 結構、お金かかったでしょ?

山崎 お金はかかりましたね。

飯出 能登印刷で発行したことになってますね? 自費出版みたいな形でしょ?

山崎 微妙なところですね。僕らがある程度お金を出して、能登印刷が出したという。

飯出 能登印刷で発行するけど、ある程度は買い取ってよ、というような感じかな?

山崎 そんな感じです。

飯出 じゃあ、今も能登印刷に注文すれば本はあるの?

山崎 あります。アマゾンでも買えますし、本屋から取り寄せも可能です。ここでも山崎旅館でも販売してますし、客室にも置いてあります。あと、能登印刷の倉庫にたくさんあります(笑)。それから、広くストーリーを知ってもらおうと県内の図書館や小・中学校、大学の一部に、全部で400冊くらい寄贈してます。今度、デジタル出版もします。アマゾンでキンドル版が買えるようになる予定です。

飯出 そうすると、お母さんが著者ということになってるわけ?

山崎 そうです。ゴーストライターがいて、母が著者だという。

飯出 でも、良い形で残しましたね。お母さんも最後に目を通して、その10日後に亡くなったんでしょ?

山崎 そうです。

飯出 しかし、それにしても、お父さんとお母さん、お若くして亡くなりましたね。

山崎 えぇ。母が64歳、父が66歳で亡くなりました。

一里野高原ホテルろあん/売店
▲地場産品の品揃え豊富な売店。嬉しいことに、一角には「いいゆ!」グッズも並ぶ。

 

岩間の泉源から一里野への引湯の歴史

飯出 本の主人公の祖父信一さんもですが、お父さんの正夫さんも相当立派な方なんですね。

山崎 ありがとうございます。父は祖父が亡くなった後、後を継ぎ、若くして山崎組の社長となり、相当な苦労をしたようです。その後、市町村合併までの間ずっと尾口村の村長をしていました。当時は兄に山崎組の社長を替わってもらって、村の財政が大変なときに村長になったんですけど。

飯出 山崎組はいわゆる建設業ですか?

山崎 土木建設です。治山工事の公共事業がどんどん入ってくるという時代だったので、父が受け継いできてから山崎組は非常に伸びまして、今はしっかりとした会社になってるんですね。

飯出 この場所、今は一里野って言ってますけど、当時も一里野って呼ばれてたんですか?

山崎 そうですね、一里が野になっているということで。別名、猫がいっぱいいたので猫が島という名前もあったようです。白山の昔話に化け猫伝説とかもありますし。

白山一里野温泉ろあん・山崎太一朗さん

飯出 へぇ~。この一里野から山崎旅館が建っている中根までのあの山道は、祖父の信一さんが作ったんでしょ?

山崎 そうですね。山崎信一が6年かけて。一里野から山崎旅館のある中根まで岩間林道が到達したのは1957 (昭和32) 年ですね。ただ、中根から一里野に湯を引く前に祖父が急逝 (1970年7月) してしまったので、その後は父と地域の皆さんとで事業を引き継ぐ形に。一里野に湯が届いたのは1975 (昭和50) 年になります。

飯出 それは村の仕事として成り立ってたんですか?

山崎 いえ、当時は温泉を開発するために林道が必要だろうということで、林業という名目で国と話をしてやったんですけど。地元負担が1割必要で、その地元負担金を祖父が負担したので、当時、関係者の間では、あれは山崎道路だと言われてたようです。

飯出 それで、中根から噴泉塔のある湯谷まで道を作るんでしょ?

山崎 湯谷まで道をさらに作って、そこから2000本の木管で湯を引っ張ってきたという。

飯出 中根から源泉地までは何kmあるの?

山崎 約3.5kmです。中根から一里野まで約5.5kmなので、両方合わせて9~10kmくらいになりますね。

飯出 で、道路の下に木管を敷設したわけですよね? 木を割ってくり抜いた木管を埋めたわけでしょ? すごいよねぇ。

山崎 はい、木管なので、しばらくしたらダメになりましたけど。

一里野から岩間に至る断崖絶壁の険しい山肌
▲一里野から岩間に至る断崖絶壁の険しい山肌。そこに「湯の道」が切り拓かれた。

 

飯出 一番最初に、岩間噴泉塔近くの湯谷に山崎旅館を作ったんですよね? で、作って2年たらずで雪崩で壊れちゃうんでしょ?

山崎 はい。1954 (昭和29) 年に完成したんですが、2年後に雪崩で崩壊。その後、壊れた建材を掘り出して、1957 (昭和32) 年に中根に山崎旅館を復活させました。バイタリティーのある人だったようです。

飯出 雪崩で潰れたけど、雪解けで材木が出てきたのを運んだってことですよね。その湯谷の山崎旅館があった場所は、今はどんなふうになってるの?

山崎 今は、湯谷に川が流れているのであちこちから温泉が湧いているんですけど、一番奥のところにボーリングした源泉があって、そこから側溝を作って貯湯槽まで200mくらい温泉を流してきているような形なんですけど、途中で2ヶ所自噴源泉があって、それも混ざって流れてきているんです。

飯出 で、今もその源泉地から引っ張ってきているわけでしょ? その管理が大変そうですね。毎年雪解け後に点検に行かなきゃいけないし、湯垢も溜まるんでしょ?

山崎 大変です。湯垢も相当溜まります。毎年春と秋に、市役所と山崎組と配管の会社と観光協会のみんなでわーっと100人くらい集めて行って、1日で湯垢を綺麗にするんですよ。100度近い温泉が出ている横で作業するから大変なんですけど。

一里野高原ホテルろあん/内湯(男湯)
▲風呂は男女別の内湯+露天風呂、有料の貸切風呂も2ヶ所ある。写真の内湯は男湯。

 

飯出 まぁ、それだけの作業をやるわけだから1旅館だけではとてもできないですよね。ある時点で湯の権利を村に譲るんでしょ? 今は白山市だろうけど。

山崎 えぇ、そうですね。今、白山市が管理しています。温泉の権利は5/6を石川県が持っていて、1/6を白山市が持ってます。一里野の他の施設は温泉を引くのに使用料を払うのですが、祖父が温泉を地域に譲渡する際、山崎家は温泉使用料の支払い免除とし、温泉営業をして利益が出たら、その一割を尾添区に納める、という条件で契約を交わしました。ところが昨今、スキー客は激減し、ホワイトロードも高速道路網が発達するとともに通過台数も半減してしまったこともあり、あまり利益を出せなくなってしまってました。それで利益の一割を尾添区に納めるという金額をたいした額に出来ずにいたのですが、両親が亡くなった後、それについてあれこれ言われることがあって、いろいろと考えた末、現在は他の施設と同じ額を尾添区に納めています。

飯出 え、そうなんですか。

山崎 尾添区にお金が入ることでそれが地域のためになるなら、それでいいじゃないか、ということでそうしています。(一里野高原ホテルろあんと山崎旅館の) 2軒で年間150万円くらいですね。
まぁ、僕としては、ここ (尾添区) が白山市になってしまって大海に放り出された感じになってしまったので、尾添区にお金が入ることは後々いいことだと思ってるんです。今、コロナ禍で経営が苦しいんですけど、自分たちのためになると思うので…。しっかり納めていきたいのですが、現在は経営状態が最悪で、ここ最近は収められていないのが辛いですね。なんとか、この苦境を乗り越えないと、と奮起しているところです。

飯出 なるほどねぇ。この温泉開発の苦闘の歴史を知らない人も多いわけでしょうからね。

山崎 当時の歴史を知ってる人は、ここが払うのはおかしいよと言ってくれる方も多いんですが。山崎信一の銅像を立てようという話も地区の方から出たりとかもして。まぁ、この本ができたってことは、そういう意味でも良かったと思います。

一里野高原ホテルろあん/露天風呂(男湯)
▲夜にはライトアップされていい雰囲気の森に臨む露天風呂は床が畳敷き。写真は男湯。

 

とにかく、長生きしてください!

飯出 山崎さん結婚してないんでしょ? とすると、後継はどうするの?

山崎 甥と姪が7人もいますから、彼ら彼女らに任せたいなと。子供達でそんな話をしてくれてるみたいなんですよ。お盆とか正月に来て、温泉入るうちに意識するようになったみたいですね。

飯出 へぇ~。

山崎 なかには学校で女将塾というのを、みんなでグループ作ってやってたりして。なんかしずしず歩く練習とか(笑)。

飯出 ははは、そうなんですか。まぁ、山崎家の歴史を見ると姪を養女として迎えたり、婿養子を迎えたりとか、そういう歴史ですからね。

山崎 そうですね。そこら辺は良いかなと。

飯出 ただ、私が心配してるのは、山崎家はほとんどが短命じゃないですか。山崎さん、長生きしてくれないと困りますよ。

山崎 僕は、父方も母方も素晴らしくガン家系で(笑)。母が54歳のときにガンになったので、僕も50歳なのでなってもおかしくないなと。

一里野高原ホテルろあん/食事処「弥助どん」
▲実家の旧家を移築した民芸調の食事処「弥助どん」。囲炉裏を囲む夕食会場になる。

 

飯出 今は、お父さんとお母さんの頃に比べると、ガン治療は雲泥の差で進んでますからね。私だって10年前にガン (悪性リンパ腫) になって、私の周りの半分ぐらいは「あいつは死ぬんじゃないか」って言うくらいな感じだったんですよ。

山崎 あ、その後に山登り始めたんですか?

飯出 そうですよ。白山に登ったのが、ガンになって5年後。3年くらいは抗ガン剤治療のために体力ガタ落ち、まったく山に登れなかったです。ご存じだと思いますけど、抗ガン剤は結構ダメージがあって。3年くらいは自宅までの坂道が辛くてね。

山崎 そんな中で「日本百名山」を登ったんですね。

飯出 2011 (平成23) 年の64歳のときにガンを発症したんですけど、その後全然登れなくて。で、69歳のとき、2016年6月に山崎旅館とここに泊まったときに白山に登ったんですよね。山崎旅館に泊まって朝飯食べずに暗いうちに出て。そのとき、白山ではまだ山小屋が営業してなくて、日帰りで登ったんですよ。

山崎 あ、あのときでしたか。

飯出 登ったのは6月15日なんですけど、その年は残雪が少なくて、白山が花盛りだったんです。雨の心配はなかったんですけど、天気は良くなく、ほとんどガスってて。弥陀ヶ原でガスに巻かれて、その中を1本の道がスーッと伸びて、その先は消えているわけ。その先に山頂があるんだけど、まるで天国に続いているように見えたんですよ。

山崎 へぇ~。

一里野高原ホテルろあん/囲炉裏ダイニング「杉の子」
▲椅子とテーブル席の囲炉裏ダイニング「杉の子」。主に朝食会場として利用されている。

 

飯出 1人で登ったんですけど、上から降りてくる人に「山頂に登っても何も見えないよ」って言われたんですけど、山頂に立ったらパッと一瞬晴れたんですよね。で、何か感じて、「日本百名山」は後いくつ残っているかなと数えてみたら、あと41座残ってたんですね。それで、次の年が古希だから、それまでに登ろうと決意して。そこからは仕事は二の次、登山最優先の生活に(笑)。まぁ、カミさんは良く許してくれたと思いますけど(笑)。

山崎 白山で決意されたんですね。そんな話だったとは。

飯出 そのとき、山崎さんとこういう話をして、たまたま車の中に山の道具を積んであって、天気はほぼ良かったんで、登ったんですよね。

山崎 それで登ったら、そういう思いに至ったんですね。白山は霊山で、不思議な山って言われてますからね。

飯出 それで2017年9月に「日本百名山」を完登して、その後に「温泉百名山」選定登山に取り組んだんですけど、あともう少しで完結という2020年9月に膝を傷めまして。診察してもらうと「もう一回山に登るには、手術しないと無理」と言われまして、来年早々に手術することになってます。
(※インタビュー2ヶ月後の翌2021年1月に手術。必死にリハビリに励んで5月に登山に復活し、秋にようやく4年がかりで「温泉百名山」選定登山が完結した

山崎 はぁ、それは大変でしたねぇ。しかし、白山がそういうスタートの山になったっていうのは嬉しいですねぇ。

一里野高原ホテルろあん/夕食
▲白山麓の地物野菜をふんだんに使った代表的プランの夕食「白山いろり炭美膳」。

 

「GO TO トラベル」と「種プロジェクト」

飯出 今年 (2020年) は前代未聞のコロナ禍に見舞われた年でしたが、山崎さんのところは休業したんですか?

山崎 一里野高原ホテルは2020年4月20日から休館を決めました。あのときはお客さん来てくれたんですけど、やってちゃいけないという空気があって。緊急事態宣言が解除されて、地域の皆さんにお伺いをたてて営業再開しました。それまではこの辺は真っ暗になって、建物がすごく無意味に見えて。でも、源泉そのままの最高の温泉だけがとうとうと流れていくんですよ。僕ら何もしてないのに、温泉だけが白山の奥深くから10kmも流れてきているという。祖父が亡くなってちょうど50年なんですけど、それがずっと繋がっているという感慨深いものがありました。

飯出 なるほどねぇ。

一里野高原ホテルろあん/貸切風呂
▲貸切風呂(有料)2つは岩風呂と木風呂。深夜から朝まで独占できるプランも用意。

 

山崎 で、温泉旅館を再開できて、石川県のキャンペーンが始まり、予約の電話が鳴り止まなくなりまして。石川県のキャンペーンは旅行会社経由で予約を入れたら対象になるので、3台の電話があるんですけど、旅行会社からの電話が鳴りっぱなしでした。

飯出 石川県が補助してくれたんですね?

山崎 石川県が30億くらい出して、宿泊料金を半額にするというキャンペーンでした。小さい旅行会社も初めて行列ができたなんて言ってましたけど。最初、「Go Toトラベル」があまりパッとしませんでしたけど、段々盛り上がってきたので、おかげ様で前年を超えるくらいになってきました。2019年の冬は雪が降らなくなったり、年末から来るはずのお客さんが全部来なくて、経営面で大変な状況になって。僕も融資のために駆け込んだりした矢先にコロナになって。でも逆にコロナになって融資を受けられることになったんですよね。それに白山白川郷ホワイトロード (白山スーパー林道) が崩落で1年間通行止めになったりして。

飯出 あらま、ホワイトロードが使えなくなってたんですか。

山崎 僕らとしては、雪が降らない、コロナになった、ホワイトロードが通れないという三重苦で…。白川郷に行くお客さんが8割くらいいるので、大問題なんですけど、「Go Toトラベル」のおかげで何とか助かったなと。

飯出 ここのお宿はスキー客が主体ってこと?

山崎 冬にはスキーのお客さんが中心になりますが、最近は冬よりも夏や秋の方がお客様が多いですね。

飯出 ぶっちゃけ、ろあんにとっては色々あったけど、コロナはそんなにマイナスに働かず、うまいこと転んだ感じ?

山崎 助けられた部分もありましたが、やはり打撃を受けた部分の方が大きいです。

一里野高原ホテルろあん/客室
▲客室は6・8・10畳の和室22室、ほかに洋室も6室備えている。写真は「201」号室。

 

飯出 「種プロジェクト」はどうでした? 「温泉達人コレクション」からお知らせして、すぐに登録してくれたんですよね?

山崎 そうです。これは渡りに船ということで登録したら、びっくりするくらい支援がきたんですよ。僕は正直、そこまで期待してなかったんですけど(笑)。すごい励みにもなりました。

飯出 他のところに聞いてみると、金額そのものよりも、応援してくれている人がいるということが励みになったと聞きましたよ。

山崎 本当にそうでした。僕らとしてはお金も入ってきて非常に有難い事でした。意外に友だちが申し込んでくれたりとか。

飯出 そうみたいですね。昔、スタッフとして働いていた女の子とか、同窓生がみんなに声をかけて応援してくれたりとか。

山崎 旅館が大変だというのをメディアで見聞きして知ってたので、何か応援したいと思ってもその術がないところに「種プロジェクト」が出てきて、これを使えば応援できるんだという、橋渡しをしてくれたんですね。

飯出 寄付ではなく「必ず泊まりに行きますから、頑張ってください!」と前払い金を渡しておくというプロジェクトだから、私はそれがいいなと思ったんですよ。応援してますよっていう思いが直に伝わるし。結局、「種プロジェクト」では、応援金額が億単位まで集まったそうですから、本当にすごいことですよね。

白山一里野温泉ろあん・山崎太一朗さんと温泉達人・飯出敏夫

 

…あとがき…

実はいま、山崎さんは大変な苦境に立たされている。
というのも、インタビューしたのは2020年11月のことで、翌2021年の年明けから一里野に温泉が届かなくなってしまったからだ。
泉源地の岩間から岩間温泉に引湯する間の崖が崩落し、送湯管が断裂してしまったのが原因である。
現在、湯の権利は石川県と白山市の所有になっているが、この惨事に対しての当局の対応は驚くほど遅く、ついには2021年度中の修復作業は未着手。
一里野も岩間温泉も温泉が届かない状態のまま、放置されてしまった。
山崎さんは、お客さん向けに、周辺にある温泉施設12ヶ所の好きなところに何度でも入浴でき、入浴料は宿で負担するという「夢のような湯めぐりプラン」を作成。
また、宿では天然水を沸かした貸切風呂を無料で利用してもらうことなどの策を講じたが、やはり集客は激減してしまった。
これは、一里野のすべての湯宿や温泉施設にとって、死活問題そのものだ。
肝心の温泉は、2022年春に崩落箇所を再調査してどう修復できるのかを検討する、というなんとも心もとない段階だという。
この温泉の修復状況を見極めていたため、インタビューの公開が遅れてしまった。
しかし、状況が一向に進展しないことを憂い、応援の思いを込めて公開することにした。
県や市の担当者には『湯の道よ永久に』を一読されて、修復のために真剣に本気で取り組むことを切にお願いしたい。

(公開日:2022年4月3日)

◆カテゴリー:湯守インタビュー


 

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白山一里野温泉・一里野高原ホテル ろあん/男湯・露天風呂

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