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vol.30/越後長野温泉 嵐渓荘・大竹 啓五

守門川畔の一軒宿を名宿へと進化させた4代目湯守の宿にかける思いとは?

越後長野温泉・嵐渓荘は旧下田 (しただ) 村、下田郷と呼ばれる山あいの守門 (すもん) 川の右岸にポツンと建つ一軒宿だ。
それほど田舎ではないが、自然環境は人里離れたという印象。
秘湯の雰囲気は十分で、かつては守門川左岸から木製の吊り橋を渡って訪ねる、独特の風情で親しまれていた。
2011年、大水のためにその吊り橋がまさかの流失。
それ以来、架橋はされずじまいだが、感心するのは復旧後の宿創りだ。
用水の流れる庭や館内の整備、この宿ならではの料理と風呂の充実ぶりなど、旅館は総合的な作品であることを、訪ねるたびにいつも実感させられる。
そこに館主大竹さん、デザイナーの奥さん (由香利さん) の洗練されたセンスと演出力が存分に発揮されている。
進化を続ける嵐渓荘4代目に、宿づくりと郷土に対する熱い思いを聞いた。

後長野温泉 嵐渓荘・大竹啓五
大竹 啓五 (おおたけ けいご) /1971 (昭和46) 年10月29日、守門岳 (すもんだけ) に源を発する守門川のほとりに建つ1927(昭和2)年開湯の一軒宿、越後長野温泉・嵐渓荘の長男として生まれる。地元下田村 (しただむら、現三条市) の小中学校を経て県立三条高校、早稲田大学第一文学部哲学科に進学。大学卒業後2年半のサラリーマン生活 (不動産ビジネス) を経て、27歳のときに家業を継ぐべく帰郷。先代の急逝に伴い、36歳で4代目を継承した。1男1女の父。三条市観光協会理事、NPOしただの里理事、「日本秘湯を守る会」信越支部役員などを務めている。

 


代名詞だった「吊り橋を渡って行く一軒宿」

飯出 僕がお邪魔したのは、何年前になりますかね?吊り橋はまだあったんですよ。

大竹 飯出さんは、私の両親や、その前の祖父、祖母の頃にいらっしゃってたんじゃないですか?

飯出 う~ん、どうだったかな。そんなには昔じゃないと思いますけど(苦笑)。

温泉達人 飯出敏夫

大竹 さっき調べたら「秘湯ロマン」は1998 (平成10) 年からでした。で、ちょうどその年に私はこちらに帰ってきました。なので、水害の前のときが初めてだったんじゃないですかね?

飯出 そうですかね。あの吊り橋が流されるって、相当の水が出たんですよね。あれは、何年ですか?

大竹 吊り橋が流されたのは、2011 (平成23) 年です。東日本大震災がありましたよね、あの年です。

飯出 え、2011年?

大竹 はい、春に震災が起きて、ちょうど新潟県旅館ホテル組合青年部長だったので、被災者の宿泊受入れ事業を行ったり、復興キャンペーンの誘客などが落ち着いてきたなと思ったら7月29日、30日と台風が来て、そしてその台風が来ているときに、なぜか北から寒波がやってきて。暖かいのと冷たいのが上空に3日間停滞して、この奥で1000㎜降って…。

飯出 1000㎜!

大竹 その1000㎜降ったのが全部この守門川に集中して流れて来たんですよ。この川はダムがないので、一気に増水しました。夜中の12時くらいに水が引いて、一旦大丈夫だろうって寝たんですけど、明け方にさらにすごいどしゃ降りがあって、とうとう建物に浸水するようになりました。川の本流からはゴーゴーと轟音がしますが、建物まで這い上がってくる水は、音もなくヒタヒタと。

飯出 ヒタヒタと。怖いですねぇ…。

大竹 ヒタヒタと流れ込んで来て、みんな浮かび上がり…。あれにはびっくりしましたね。

飯出 もう、そのときは吊り橋は流されてたの?

大竹 吊り橋を吊っていた鉄製ロープの基礎土台がまず土砂崩れして、その勢いで川岸に立っていた橋の塔ややぐらが流されました。それに引っ張られるようにして吊り橋本体も流されてしまった感じです。

飯出 なるほどね。何しろ、以前はここのキャッチフレーズが「吊り橋を渡って行く一軒宿」だったのでね。

大竹 そうですね、対岸に駐車場があって坂道を下りて橋を渡ってこっちに入って来るという。今、駐車場からのアプローチは、昔の裏口なわけですよ。だから、一所懸命風景を変えて、今ようやくいいねと言われるようになったんですけど。初めのうちは、雑然とした裏からの道は旅館らしい風情がなく、みすぼらしい小屋も建っていたりして、「帰ろうかと思ったよ」とお客様に言われたりもしました。秘湯の宿でも、いくらなんでも酷すぎだろうと(笑)。

越後長野温泉・嵐渓荘/外観
▲本館「緑風館」の外観。三条から移築した木造3階建ての建物で、国の登録有形文化財だ。

 

飯出 確かに、以前は裏口でしたからね(笑)。対岸の道はまだあるんですか?

大竹 人が歩く道くらいはまだあります。ただ、また大水が来るだろうと、川幅を10m広げたんですよね。マイクロバスは通れなくなっちゃったですけど、もう大水が来ても怖くないですね。

飯出 庭の敷地内にある水車の水は川の水じゃなくて、山の水を引いてるの?

大竹 あれは、守門川の水を引き入れていて、それがずっと流れていって3~4㎞先の田んぼまで行ってます。この疏水自体は、100年前に嵐渓荘のお湯を掘った曾祖父の前からあって、江戸時代からあったようです。越後長野温泉の長野っていうのはここの地域名なのですが、その長野地域の多くの田んぼに届く大事な水なんですよね。

飯出 用水路ということね。

大竹 はい。なので、その水害のときも当然土砂で埋まってしまって、普段はその流れに廻っている水車も玄関近くまで流されて来ました。一面泥だらけで、重機はないので人間の手で上げるしかありませんでした。いったい何人で作業すればいいんだろうって感じだったんですけど。長野地域のみなさんが雨のおさまった30日の朝5時から早速道具を持ってやってきて、「大変だろう」っていって、黙々と建物の玄関やラウンジ付近に積もった泥を掻き出しはじめてくださいました。わずか1日で建物一階の泥がなくなってしまい驚いたことを覚えています。そしてその光景をみてなんか私のやる気スイッチが入りました。翌日の31日は大雨のあとの青空、そして日曜日でした。長野地域の老若男女が総出で用水の泥上げをしまして、わりとすぐに水は流れるようになりました。とても暑かったことをおぼえています。

飯出 へぇ。

大竹 ちょうど田んぼに水入れる時期で。本当に命の水なんですよね。

越後長野温泉・嵐渓荘/水車
▲庭には水車が回る用水が流れる。清澄な水は下田郷の貴重な灌漑用水の役割を担っている。

 

曾祖父が自ら掘削し湧出させた「塩湯」

飯出 そもそも、ここの温泉は曾おじいさんの時代に始めたんですよね?

大竹 私の曾おじいさんが、保吉 (やすきち) っていうんですけど。じいさんは大竹家の13人くらいいる中の末っ子でした。大竹の家は江戸時代には肝入(きもいり)といって長野集落のまとめ役みたいなことをしていたらしいんですよ。でも、明治になってそういう家は国の制度が変わり傾いていくわけです。うちの先祖は明治初めに大火事を起こしたりして、ご多分にもれず傾く一方だったそうで、保吉曾じいさんは13歳のとき母親と東京に行くんです。

飯出 へ~、東京に。

大竹 逃げるように行ったんでしょうか。で、40歳をすぎるまで東京に暮らしていました。東京にいた頃は、保吉さんは、刑事をやっていたそうなのですが、泥棒に苦労話を聞くと同情心からわざと逃がしてしまって上司に怒られたり、大正6年の関東大水害のときには、真っ先にまず自分の母親を守りに行って降格になったりとか(笑)。私もその血を引いているのでなんとなくわかるんですけど、マイペースな感じの人だったみたいです。

飯出 そうなんですか、なるほど。

大竹 そして40歳をすぎて、一念発起して新潟に戻る。戻るとはいえ、保吉さんの中身はすっかり東京の人だったと思うので、UターンというよりIターンって感じだったと思います。そのときには、親子ほど歳が離れている若い嫁さん (私の曾ばあさん) も連れ帰ってくる。で、なぜかここを掘り始めるんですよね。

飯出 なぜか(笑)。

越後長野温泉・嵐渓荘/内湯(女湯)
▲内湯は男女対称で、ほぼ同様の造り(写真は女湯)。しょっぱい温泉は芯から温まる強塩泉だ。

 

大竹 一つには、当時新潟県は石油が出るので、石油掘ってたら温泉を見つけたって話がよくあるので、それで掘ったのではないかという話があります。でもここは石油のせの字もないところなんです。この裏山に冬になっても一ヶ所だけ雪が積もらないところがあるんですけど、それを見て温泉が出るんじゃないかと思ったんだろうとか、いろんな説があるんですが、とにかく2年かけて井戸を掘ったら、1926 (大正15) 年にこのしょっぱい湯が出て来たと。旅館の創業は、そのしょっぱい湯が鉱泉と認定された1927 (昭和2) 年からですね。

飯出 自力で掘ったわけ?

大竹 そうですね、動力がないので上総掘りという当時の最先端技術で掘ったそうです。YouTubeなどでその仕組みを今は見ることができるのですが、良く考えてあるなぁって感じの技術でした。

飯出 それで、そのお宿も曾おじいさんが始めたんですか?

大竹 保吉さんは、東京にいた頃に日蓮宗に帰依していて、宗教的な考え方を持っている人で、人のために何かしたいっていう人だったんでしょう。お湯を掘るお金も、そういうご縁の人がカンパしてくれたみたいですし、温泉が出た後も療養所みたいな感じで、東京でストレスを溜めた知り合いなどが癒しを求めてやってきてたみたいですよ。

飯出 へぇ。

大竹 そんな感じなので、ビジネス的には成り立つはずもなく、今ほどお金お金の時代ではなかったとおもいますが、それでもお金には苦労したんだそうです。保吉曾じいさんが亡くなり、戦争も終わり、ここに残されたのは曾ばあさんと娘二人しかいませんでした。娘の一人 (私の祖母) が近くから婿さん (私の祖父) をもらって女性3名+男性1名の4人体制になり、時代もなんとなく変わったんでしょうね、これからは観光に舵を切ろうということになった。

飯出 なるほど。

越後長野温泉・嵐渓荘/「山の湯」の「深湯」内湯
▲離れの浴場棟「山の湯」の「深湯」の内湯。宿泊客は22時まで、フロント申し込みの貸切制。

 

大竹 で、10年も経たないくらいに、香具師みたいな人が現れて、今は有形文化財に登録されている木造本館の建物を、当時のお金で300万で買わないかって売りに来たそうです。当時の300万円は今だと1億円近い額になるようです。ほとんど観光業には素人みたいな人たちが、そのお金をどういう風に用意できたのか。借りたらしいんですけど、よく借りられたなぁと(笑)。
売りに出ていた建物は、当時の燕市の燕駅前にあった木造3階建ての料亭で、それをここまで解体移動して組み立て直しました。

飯出 あぁ、それで移築ということだったんですね。

大竹 はい。東京生まれ東京育ちの曾ばあさんがなかなかたいした人物だったんだと思います。私が中学生くらいまで曾ばあさんは生きてたのでどういう人か知ってるんですけど、まぁやり手の人だったんですね。とにかく外交力があっていろんなことを引っ張ってくるという。で、そのエネルギーでバスをここまで来るように頼み込んだりとか、川の護岸も石積みで綺麗になってますけど、あーだこーだ言ってやってもらったりとか。お金はないけど、いろんなものを引っ張ってきて、最初の基礎ができました。

飯出 なるほどね。

大竹 そんななかで、私の父親が生まれ、教育熱心だった祖母は父を東京の大学へ進学させました。父は学生運動が盛んな頃の法政大学に通いながらも、強い意志でノンポリをつらぬき通したと言ってました(笑)。父はサラリーマン経験はせずにすぐ帰郷して、経済発展期で一番忙しい頃の嵐渓荘に帰って来ました。
当時、三条に角屋っていう小さい魚屋さんがあって、私の母はそこの末娘でした。越後交通のこっちの終点が嵐渓荘で、向こうの終点が三条の五ノ町の角屋。電話で魚をこれこれみつくろってくださいと言うと、越後交通のバスに乗って魚が運ばれてくるという(笑)。そんなのどかな話を聞いたことがあります。

飯出 ははは。いい時代ですね。

大竹 そんなご縁で、父と母は1歳違いで高校も一緒でした。父の嫁にちょうど良いのがいたと、曾ばあさんがうちの母を大変気に入り二人を結ばせようと強く働きかけたんだそうです。
当時は嵐渓荘周辺は今以上に道路は細く砂利道で、冬は雪に閉ざされてしまう山奥の秘湯という感じの場所だったので、母は友達からもあんなところに行くのはよしたほうがいいと止められたらしいんですけど、ちょっと母も変わり者ですので、人とは違った人生を歩んでみたいとでも思ったのでしょうか、結局は嫁いで来ちゃいました。

越後長野温泉・嵐渓荘/「山の湯」の「深湯」露天風呂
▲離れの浴場棟「山の湯」の「深湯」にある露天風呂は、胸までの深さがある立って入る立湯。

 

高校、1浪、大学生時代を謳歌して

飯出 大竹さん、何人兄弟ですか?

大竹 私は長男で、2つ下に弟がいて今は千葉で家族と暮らしています。その下に7つ離れた妹がいて、妹が昔から社交的だったので、彼女が旅館を継ぐか?という話もあったんですよ。まぁ、俺も妹が継ぐことになるかなと思ったこともあったんですけど、なぜかそうならず(笑)。

飯出 大竹さんは、中学まで地元?

大竹 中学まで地元で、高校は三条に。三条はバスに乗ればギリギリ通えるんです。

飯出 へぇ。高校時代は何か部活してたんですか?

大竹 高校時代は剣道してました。

飯出 タッパがあるから、強そうですね!

大竹 いえ、全然強くないです(笑)。タッパがあるから面しか打てず、タッパがあるから胴を抜かれ。ただ、稽古は好きだったんですよ。ただ、試合に出ても闘争心に欠けるので勝てないんですよね。

飯出 闘争心に欠ける(笑)。半沢直樹でやってましたよね、剣道のシーン。そういえば堺雅人さんも大竹さんも大学は早稲田の第一文学部なんですよね?

大竹 はい。当時、堺雅人さんが学部の1つ下の学年にいました。私が所属していたサークルの後輩が堺さんとクラスが一緒で、演劇練習に忙しい堺さんの代わりに、出席の代返をしてあげる仲だったと、卒業してから聞いたことがあります。なにより、堺さんは当時から早稲田のプリンスと呼ばれていて人気あったんですよね。私は五木寛之の『青春の門』に心揺さぶられ、またサブカルが好きだったことと、さらに変人奇人の巣窟みたいなイメージに憧れを抱いて、一浪しましたが運良く早稲田に入学できました。

越後長野温泉・嵐渓荘/フロント
▲玄関を入るとフロント、右手に売店、左手に進むと書籍が置かれたラウンジやカラオケルームもある。

 

飯出 へぇ。浪人時代は家を出て?

大竹 はい。あの頃は今とちょっと違って浪人するのが当たり前の時代でした。私も現役受験で落ちた瞬間に、さぁ、浪人しよう!と、新潟市内で寮のある予備校を見つけ、入寮手続きなどすべて段取りしまして、事後承諾になりますがハンコとお金だけお願いします、よろしく!(笑)と。親には苦笑いされましたね。宿に戻り事業承継したので、その分は返したことにしてほしいと考えていますけど(笑)。浪人時代は楽しかったですねぇ。

飯出 へぇ、楽しかったんですね。

大竹 本当楽しかったです。大学も楽しかったけど、浪人時代もすごく楽しかった。自分は勉強好きだったんだなぁ、と気がつきました。

飯出 浪人て、意外と重い感じがするけど、そうでもないんだ?

大竹 いやぁ、まぁプレッシャーはありましたけど、ひたすら勉強だけしていれば良くて、バイトもしなくて良かったし。好きなときに勉強できて、好きなときに本読んで。最高でした。

飯出 大学時代はどうでしたか?

大竹 大学時代は下宿探しから始まりましたね。まず、学校の周りを探しましたが、一緒に上京した母も要領がよくわからず歩くだけ歩きくたびれまして、部屋探しは後回しにして、東京の母のペンフレンド(文通仲間)に挨拶しに行くことにしたんです。高田馬場から池袋経由で下板橋へ。下板橋駅を降りたら目の前に古ぼけた不動産屋があり、そこで1軒目に紹介された物件が鰻屋さんの2階の6畳間。二人ともくたびれていたこともあり、即決しました。部屋に和式水洗トイレと流しはありました。風呂はないんですが、近くに銭湯もありましたし、急ぐときは小さな流しで器用に全身を洗う技も身につけました(笑)。

飯出 楽しそうですね。

越後長野温泉 嵐渓荘・大竹啓五さんと温泉達人・飯出敏夫

大竹 酒屋の配達とかレストランのウエイターとか、バイトはいろいろやったんですけど、一年生の夏休み前にサークルの先輩から「バーテンダーのバイトしてみないか?」と誘われて、面白そうなので渋谷まで付いて行きました。バイトの面接はカウンターに座って生ビールを一杯呑みながら、カウンターの中の先輩と話をしたり、カウンターの奥に座ってるおじさんと話をするという風変わりなもの。幸い…だったのか、苦難のはじまりだったのか、「TheS」という名前のバーで働くことになりました。結局そのバイトが理由で大学に5年通うことになりました(笑)。18時から翌朝の3時くらいまで週に3~4日働いて (呑んで) ましたので。

飯出 ははは。

大竹 本当にあの頃面白くて、インターネットがないので、バーに情報というか人脈というか出会いを求めて、お客さんがいっぱいやって来てたんですよね。まだ、バブルの余韻が残っていたので、お金持ちもいっぱいいましたしね。面接で奥に座っていたのがマスター (親方と呼んでました) で、親方は慶応を幼稚舎から大学まで通った渋谷生まれの渋谷育ちの生粋の東京人。私が今まで会ったことがないタイプの人でした。喧嘩もしたし、一緒に遊びにいったり、とにかくたくさん呑んで話をしました。今でも心から親方には世話になったと感謝しています。ほんとうによい経験をさせてもらったと思います。

飯出 大学卒業後は、すぐに帰郷したわけじゃないんでしょ?

大竹 はい、2年半ほど東京でサラリーマンをしてましたね。不動産ビジネスを。

飯出 ほぉー、不動産ビジネスはその後の役に立ちましたか?

大竹 立ちましたね。嵐渓荘は家業に毛が生えた程度の会社ですが、それでも銀行から融資を受けるには事業計画を作成しなければなりません。また、温泉旅館業も所有する土地を有効活用して利益を求める事業と考えれば、ひとつの不動産ビジネスです。右手にロマン、左手に算盤といいますが、当時の会社の先輩たちと汗をかいて営業したり、夜遅くまで企画書を作ったりしたことは、その後の旅館経営をする上での大事なところをたくさん学ぶことができたと感じています。濃密な2年半でした。

越後長野温泉・嵐渓荘/ラウンジ「ひめさゆり」
▲ゆったりとくつろげるラウンジ「ひめさゆり」。奥のカウンターはBarの雰囲気で、お酒も楽しめる。

 

36歳で4代目継承して波乱万丈の日々

飯出 大竹さん、何年生まれですか?

大竹 1971(昭和46)年10月29日生まれです。なので、私が東京に行ったのは、平成になったばかりの頃ですね。

飯出 若いなぁ(笑)。何歳で4代目を継いだんですか?

大竹 父親が62歳で癌で亡くなったので、私が36歳のときですね。

飯出 62歳ですか。それは、若かったですねぇ。大竹さん、お子さんは?

大竹 2人いて、上が男で下が娘です。今2人とも大学生です。2人目が生まれてからすぐに二人の母親は重い病を患い、それからわずか2年でこの世を去ってしまいました。まだそのとき彼女は30代半ばでした。

飯出 30代半ばですか…。それもまた若かったですねぇ。私の耳にも、大竹さん大丈夫かなぁ、と心配する声が入ってきましたよ。

大竹 そうですね。自分では大丈夫と思ってましたけど、今考えるとかなり壊れてましたね。

飯出 でも、その後再婚したらしいよという話も聞いて、良かったなぁと思って。僕が再訪したときは、もう奥さん (由香利さん) と結婚されてたと思うけど。

大竹 結婚したばかりの頃ですね。水害の前の年だったと思うので。

飯出 ですよね。奥さんが亡くなってから、お子さんの面倒は誰が見てたんですか?

大竹 由香利さんと一緒になるまでは全面的に私でした。母親と父親がまだ元気だったので、私は仕事をそっちのけに子育てしてました。

飯出 あ、そうなの。

越後長野温泉・嵐渓荘/庭
▲本館「緑風館」の窓から見下ろした庭。水車や用水、休憩舎の建物がいい雰囲気を醸している。

 

大竹 大変でしたけど、子供と一緒にいられたので、今となっては良かったのかなと。喪失感からこのまま自分も死んでしまいたいなんて思ったりはしませんでした。子供ふたりを育て上げるまでは生きると。それでも、なんか訳のわからない怒りみたいな、爆発してしまいたいような気持ちがときどき湧いてきて、そういうときは、まだ小さかった息子と娘も乗ってる車を運転しながら、THE BLUE HEARTSの歌を腹から大声出して熱唱したりしてました。後ろのチャイルドシートで息子や娘が泣こうが喚こうがますます声を張り上げて歌っていたような。うーん、やはり壊れてましたね(笑)。

飯出 そうですか…。

大竹 でも、そんなのもあっという間でしたね。あの頃は「日本秘湯を守る会」の会合に子供を連れて行って、ワイワイ騒いだりもしてましたね。

飯出 由香利さんと再婚したとき、お子さんは大きくなってた?

大竹 小学生の低学年になってましたね。まだよく訳も分からない年頃でしたが、なんか由香利さんをお母さんと呼ばせるのは違う感じがして、結局今も子供達は由香利さんと呼んでますね。家族にはいろいろなスタイルがありますが、その一つですかね。

飯出 なるほどねぇ。由香利さんは、そのとき何をされてたんですか?

大竹 私が出会ったときはWEBデザイナーをやっていました。彼女は大学が日藝(日本大学芸術学部)だったのでデザインの素養があり、また高度なHTMLソースコードもそれなりに書けたし、当時の顧客や開発チームとのコミュニケーション能力も高くて評判はよかったようです。

飯出 なるほどねぇ。

後長野温泉 嵐渓荘・大竹啓五さんと
▲国の登録有形文化財、本館「緑風館」の建物をバックに、大竹啓五・由香利ご夫妻。

 

大竹 で、たまたま私が地元の商工会のWEBサイトをリニューアルする担当になりまして、予算が少しあったのでデザイナーを頼むことになりまして、探して巡り会ったのが由香利さんでした。最初の打ち合わせで、彼女はすごい熱を込めてこの辺の観光や産物などについて語るので、なんだこの情熱は、もしかして俺に気があるとか?と思ったんですけど(笑)。アホですね。

飯出 ははは。

大竹 でも、それは彼女の仕事に対するいつもの姿勢で、また、この地域への愛が元々強かったということもあり、色気のあるような話は一切なく、すべて私の勘違いでした(笑)。

飯出 えぇ~、そうなの。まぁ、だいたいは勘違いから始まりますから(笑)。

大竹 そもそも旅館の女将になるなんて、当時の彼女にはまちがってもそんな気はなかったと思います。でも私は一目見て、こういう女性は旅館業に向いてるなぁとは思ってました。その後いろんなことがあって、私の人生のパートナーとなり、二人の子供の母にもなってくれました。

飯出 ご縁ですね。縁とは不思議なものですね。

大竹 まぁ、そうですね。

越後長野温泉・嵐渓荘/客室
▲鉄筋3階建ての新館「渓流館」の閑静な客室。男女別の風呂はこちらの建物の1階にある。

 

塩が作れるしょっぱい湯、そして自然との共生

飯出 ここの温泉はしょっぱいですよね。あれ、塩取れるんですか?

大竹 塩は作れます。煮詰めて1リットルで10gちょっとの塩が取れます。地元のご当地ソーセージ作るときに使ったりします。宿の朝食には源泉と湧き水だけで炊いた温泉粥をお出ししてますが、名物になりました。しょっぱくて旨味があって美味しいんですよ。あと、うちの源泉を煮詰めてタレにして、鯛の出汁とあわせてラーメンのスープにした、山塩ラーメンもあります。これは近くの食堂「八木茶屋」さんで提供されています。

越後長野温泉・嵐渓荘/朝食
▲朝食の一例。源泉を使って炊いた温泉粥(左手前)は源泉の塩味がほどよくきいた逸品である。

 

飯出 お料理は板前さん?

大竹 板前さんです。それと、うちの母も材料の仕入れやメニュー提案など、今も率先してやってくれています。母の実家は魚屋にはじまる割烹料理店だったので、嫁いで来てからなによりも料理には熱心だったようです。当時のお客様は地元の方がほとんどでしたから、ここはいつも同じ料理だなぁと直接言われたりもしたそうです。また板前さんもいませんでしたから、家庭料理の延長レベル。私が小学生の頃にはじめて板前さんを雇うようになりました。山菜料理の達人みたいな人だったのを覚えてます。その後、1989(平成元)年に新館がオープンするとき、他の旅館で板長さんを務めていた方が移籍してきました。その板長さんと40代だった母が中心になって料理を一新させました。もちろん、祖母の頃からのぜんまいの一本煮など、昔からの味も定番メニューも大切に残し継承しています。嵐渓荘はお水は水道ではなく山の湧き水を使っているので、それが美味しさにつながっていると思います。三条市の名水に選ばれている美味しい水です。

飯出 僕は、大竹さんのところからニュースを送ってもらってるのを見てるんですけど、結構山の整備をされてるじゃないですか。あれは大竹さんが好きでやってるの?

大竹 あれは、お客さんで山が好きな人がいて始まりました。はじめ登山道を作ろうといわれたときは、どうやって断ろうかと考えてました(笑)。とってもそんなの無理では?と。

後長野温泉 嵐渓荘・大竹啓五さん

飯出 この辺をずっと歩いて行くルートを見つけて整備できたとか書いてあって、行ってみたいなって思うんですけど。

大竹 まず最初はスノーシューから始まったんですよ。その山好きのお客様は後から分かったのですが、早稲田の大先輩でした。学校が一緒だと馬鹿話のレベルが絶妙に合うようで、ワイワイ話していたら、もうスノーシューやるしかない!となりました。冬の山はヤブや低木がぜんぶ雪の下なので、スノーシューでどこでも歩いて行けます。あの爽快感、はまりました。それで、春になったらこんどは冬に歩いた道を調査したり、地形図で歩きやすそうなルートを探したりしました。裏山の机山は半分は私の所有地なので、その部分を中心に嵐渓荘から山頂まで歩けるルートを開発することを目指しました。道造りの途中に、かつて炭焼きに使っていた道を発見したり、謎の巨石遺跡みたいなのがヤブの中から出てきたり、大いに盛り上がりましたね。いろいろな方のご縁で、数年かかりましたが、「標高222m机山・登山道」は完成しました。

飯出 で、山頂みたいなのがあるんですか?

大竹 一番上のところに、ちょっと平らなところがあって、粟ヶ岳から守門岳までバーっと見渡せるんです。

飯出 僕は、長いことヒメサユリの咲く山、粟ヶ岳に憧れていましてね。今年 (2020年) ようやく登れたんですけど、結構きつい山ですね。

大竹 そうですね。登るのは標高差1000メートルくらいですが、その割にきついですよね。

飯出 麓から全容が見えるんですけど。大竹さんにとっては、学校で登るような「ふるさとの山」なんでしょ?

大竹 そうですね。5月5日が山開きなので、親に友達と登っていいかと聞いたら腹筋10回できるようになったらいいよと言われて。私は運動音痴なんですけど、腹筋10回できるようにがんばって、小学校5年生で初登山しました。みんなで同じ体操着を着て写真撮って、今もアルバムに入ってますよ。

越後長野温泉・嵐渓荘/夕食
▲夕食はいくつかの選択肢があり、これはフルコース。嵐渓荘ならではの趣向を凝らした料理が並ぶ。

 

若いスタッフとともにコロナ禍を乗り切る

飯出 大竹さん、今度のコロナ禍で、どういうことを一番感じました?

大竹 私は思いが先に走ってしまう性質なので、感染症の流行がひどくなれば、見知らぬ人同士が裸のつきあいをする大浴場文化なんて消えてしまうのでは?そして、うちらの商売は成り立たなくなるんじゃないかと。そうなると、嵐渓荘も店仕舞いせざる得なくなるんじゃないかと。いずれにしてもコロナ禍発生当時の売上ゼロの1ヶ月は不安で仕方ありませんでした。これが続けば会社の資金繰りはすぐパンクするなぁと。しかし、こういう理由で宿を閉めるのであれば仕方がないかもな、と覚悟もしてました。

飯出 そうですよね。それを思いとどまらせたのは、どういう理由が?

大竹 一つは、金融庁からの通達で、銀行がいち早く借金返済を1年待ってくれたこと。かなりホッとしました。そしてコロナ融資もすぐに始まりましたので、ひとまずの資金繰りは目途が立ちました。しかし、コロナ禍収束の目途はまったく立ってませんでしたから、傷が大きく広がる前に悪あがきせず宿を閉めて自分は自己破産して…など、銀行にそんなシナリオも具体的に相談することも考えていました。しかし、そんなときに、様々な人たちが私たちのことを心配してくださっていろんな応援をしてくださいました。その1つに「種プロジェクト」がありました。将来、嵐渓荘を利用できる宿泊券を、常連さんやいろんなご縁のある方が数ヶ月で600万円以上も買って下さいました。お手紙や応援メッセージも本当にたくさん頂きまして、私たちが思っている以上に嵐渓荘は大事に思われているのだなと、強く強く感じましたね。

飯出 「種プロジェクト」は「温泉達人コレクション」でも応援させてもらったんですけど、やはり他の宿からも同じような感想をたくさん聞きました。改めて宿を支えてくれる人がいることに気がついたのが大きかった、と。

越後長野温泉・嵐渓荘/「山の湯」の「石湯」露天風呂
▲離れの浴場棟「山の湯」にある「石湯」の露天風呂。名前どおり、木立に囲まれた石造りの湯船だ。

 

大竹 そもそもコロナ禍以前から、観光業に携わる私たちは漠然とした不安を抱えていました。今までと同じ仕事を続けていて、これからもお客様に我々は必要とされ続けるのだろうか?という不安です。コロナ禍はその不安な面を急激に早めたものだったように感じます。コロナ禍以前から解決すべき問題は根深くありました。じゃあ、どうするか。すぐに解決策は見つからないと思います。まず、コツコツやるしかないのかなと。お客様に納得していただけるサービスを提供できるように努め、それを継続できるようにやりくりしていくしかない。不安は常に消えないと思います、でも、私たちの温泉旅館を愛してくださり、いざというときにはあんなに声援を送って下さるお客様がたくさんいらっしゃる、それは間違いない。まだまだ温泉旅館に未来はある、そう信じられるようになったことは強いです。これからは簡単には諦めようなんて思いません。

飯出 結構、嵐渓荘のスタッフは若い方が多いと感じたんですけど。

大竹 まぁ、他に比べるとですかね。ほとんど車で30分かからないくらいの地元の子ですね、それがうちの良いとこですね。

飯出 いろいろなところにインタビューさせてもらってますが、みなさん異口同音に、とにかく人手の確保が難しくなったのが辛いと。部屋は空いてるけど、人手がないから客が取れないと。

大竹 そうですね。うちも今はたまたま若いスタッフが多いですが、タイミングですかね。

後長野温泉 嵐渓荘・みらいポスト
▲ラウンジの一角にある、旅の思い出などをしたためて投函すると12年後に手紙が届くポスト。

 

飯出 それにしても、大竹さんのお宿は良い宿になりましたね。ここは、三条市街とも意外と遠くないので、他のすごい山の中の秘湯宿だと行くだけでも大変ですけど、ここは秘湯感があるわりには、そこまで不便でないというのが強みですよね。

大竹 4~5年すると、福島からの道 (国道289号) ができるんですよ。福島県奥会津の只見町と車で行き来できるようになる予定なんです。

飯出 なるほど、地図で点線になっている部分ですね。

大竹 はい。それができると、便利になるぶん、なんか秘湯感がなくなりそうですけどね(笑)。でもまあ、嵐渓荘は国道から一本引っ込んだところにあるので、地の利を活かしてこれからも湯と宿を守り続けていきます。

越後長野温泉 嵐渓荘・大竹啓五さんと温泉達人・飯出敏夫

 

…あとがき…

嵐渓荘のある旧下田村には、私が長年恋焦がれていたヒメサユリの咲く山として知られている粟ヶ岳という山がある。
この山に登ったのは2020年6月10日。
新型コロナが猛威を振るい、緊急事態宣言は解除されたものの、新潟県内では首都圏からの訪問客に神経を尖らせていた頃だ。
この日、下山しても登山口近くにある日帰り温泉施設は首都圏からの客を拒絶、嵐渓荘も臨時休業中で泊まることができず、汗まみれのまま帰途についたのだった。
というわけで、嵐渓荘を改めて訪ねたのは秋となった10月3日。
今回でたぶん4度目の訪問になったと思うが、湯宿として進化しているのに驚いた。
今回、大竹さんにじっくりとお話を聞いたが、しっかりとしたポリシーを持ち、インテリジェンスあふれる人との話は興味が尽きなかった。
今後益々の活躍を祈念するとともに、「日本秘湯を守る会」の若手のエースとしての活躍も期待したいと思う。

(公開日:2021年9月18日)

◆カテゴリー:湯守インタビュー


 

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