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Vol.9/中棚温泉 中棚荘・富岡 正樹

小諸の老舗宿を継承した5代目湯守の、多角経営に踏み出した決意とは?

明治の文豪島崎藤村が33歳のときに発表した詩集『落梅集』の中の「小諸なる古城のほとり」で、「千曲川いざよふ波の岸近き宿」と詠った「岸近き宿」が、ありし日の中棚鉱泉である。
その歴史ある宿の5代目を継承した湯守はいま、旅行業を立ち上げ、2018年11月1日には自前のワイナリーも開業した。
注目の多角経営に踏み出した湯守の、その決意と展望に迫るインタビュー。

中棚温泉 中棚荘・富岡正樹

富岡 正樹 (とみおか まさき) /1956(昭和31)年5月9日、小諸市千曲川河畔で「中棚鉱泉」を営む富岡家の長男として生まれる。駒澤大学工学部卒業後、すぐに帰郷して家業に従事。30歳のときに父が急逝して、5代目を継承する。1988(昭和63)年新源泉の掘削に成功し、1993(平成5)年に新館(平成館)や新浴場の完成を機に、「中棚温泉・中棚荘」と改称、現在に至る。3男1女の父。2018年12月現在、小諸市観光局総合部長、「小諸義塾の会」幹事長などを務め、利き酒師やソムリエの資格も取得している。

 


「藤村ゆかりの宿」になったのは?

飯出 中棚荘の創業は1898 (明治31) 年、現当主の正樹さんで5代目だそうですね。創業の前年くらいから建物を建てたと思うんですけど、今の大正館の建物はその時の建物なんですか?

富岡 いえ、その時の建物はもう面影程度しか残ってないですね。大正と昭和にだいぶ改築しちゃってるんで、当時の一番最初の建物はもう残ってないですね。まぁ、水明楼は当時のままですけど。

飯出 あぁ、宿の前の高台に建っている茅葺きの建物ですね。で、その1898 (明治31) 年に建てた時は、中棚鉱泉っていうお湯は出ていたんですか?

温泉達人・飯出敏夫

富岡 そうですね。今も湧いてるんですけど。ちょっと赤っぽい湯で、沸かし湯だったんですね。

飯出 それはもう最初から湧いていたんですか?

富岡 それは、小諸義塾の塾長で木村熊二っていう先生が、開発した方がいいよっていうことで、開発が始まったんですね。

飯出 あぁ、じゃあ最初はまずお湯があって。

富岡 1892 (明治25) 年に、木村先生指導のもと、長野県で効能分析をしてるんですよ。

飯出 木村先生は、創業から関わってるんですね。

富岡 ここの水明楼に住んでいらっしゃったんですね。

中棚荘「水明楼」
▲木村熊二小諸塾長の別荘だった「水明楼」。中棚莊で管理していて、見学もできる。

 

飯出 あの水明楼は、もともとどこに建ってたんですか?

富岡 耳取にあった士族屋敷を移築して別荘とし、そこに住んでたんです。

飯出 なるほど。その縁で、小諸義塾に教師として赴任した島崎藤村が中棚鉱泉の湯に通った、というわけですね。

富岡 当時は千曲川の流れが目の下で、現在のように川との間に建物なんか無かったので「岸近き宿」だったんですね。


▲大正館にも古風な客室があり、こちらを希望する客も多い。写真は「藤村の間」。

 

新源泉の掘削成功が飛躍の契機に

飯出 それで、現在の新しい温泉を掘削して湧出したのが1988 (昭和63) 年ということですけど、これはどういう経緯で掘ろうと決めたんですか?正樹さんの代で掘ったんでしょ?

富岡 はい、私が掘ったんですけど。それまでの湯は量自体もタンクに貯めてようやく1日もつ程度で、冬はちょっと少なくなる。あと、父が温泉掘りたいって言ってたんですけど、早めに癌で亡くなっちゃったんで…。

飯出 お父さんは早くに亡くなられたんですか?

富岡 私が30歳のとき、61歳で亡くなって。まぁ、父の温泉が欲しいという希望は聞いていたので。

飯出 30歳の時は、もう結婚されてたんでしょ?

富岡 25歳で結婚したので、2人子供がいた時期ですね。

飯出 掘れば温泉が出るのは、確信してた?

富岡 いやぁ、もう条件として敷地の中で掘らなきゃいけないし。でも、例の「ふるさと創生」の前で良かったですよ。みんな掘り始めちゃって。

飯出 高くなった?

富岡 そうです、掘削料が高くなった(笑)。

中棚荘/りんご風呂
▲「まだあげ初めし前髪の…」藤村の詩にちなんだ「初恋りんご風呂」(10~5月に開設)。

 

飯出 あの頃は大体100メートル1000万って言われてましたよね?

富岡 そうですね。600メートル掘りました。その後に、アメリカの1000mでも2000mでも掘れる石油掘削用の機械がどんどん入ってきて、もう各地でめちゃくちゃ掘り始めて。

飯出 あれはやっぱり、そんなに深く掘るようになったのはアメリカの石油掘削用の機械が入ってからなんですかね?

富岡 その前の市町村とかで掘っていたのはまだ国内の機械だから、1000m掘れれば深い方だったと思います。

飯出 温泉が出た時は、感動しました? お~出たぁ!って感じ?(笑)

富岡 圧力あって、噴き上げましたね。川のように本当に出て、あぁこれは成功かなと。

飯出 でも今は、掘削自噴ではないんでしょ?

富岡 ずっと掘削自噴してたんですけど、それが一時止まったんで、ポンプアップにしたんですね。

飯出 まぁ、温泉は掘ってもしばらく使ってみないと安定するまでわからないっていいますもんね。でも、湧出量毎分250リットルでしょ?

富岡 そうですね。ただ、一軒だけの使用ですので、大事に使ってます。


▲壁には島崎藤村を描いた絵が掛かる書斎風のロビー。冬季は薪の暖炉が燃える。

 

飯出 お風呂のサイズも適正ですしね。

富岡 はい。うちの湯船は大きくないですが、最初に温泉が出た時に湯船を大きく造って困っているところはたくさんあるみたいです。

飯出 湧出量が豊富だから、客室の洗面所とかトイレとか、全部温泉を使ってるんでしょ? 僕なんかは部屋の洗面所やトイレは温泉にするなんて必要はなくて、お風呂の方をかけ流しに出来るといいなぁ、ってすごく思うんですけど。

富岡 そうですね。まぁ、かけ流しにするにはどうしてもボイラーを大型にしないと難しいんですよね。冬は寒いし、冷える率が高まるので。

飯出 う~ん、加温しないともたないから、そこは辛いところですね。夏はいいけど。

富岡 真夏はまぁまぁ。

飯出 38度でしたっけ?まぁ、ギリギリですよね。

富岡 そうですね。まぁ、夏でも40度くらいは欲しいですしね。

飯出 加温浴槽と源泉浴槽があると理想的なんですけどね。

富岡 そうですねぇ。


▲大きな栗の木が枝を伸ばす玄関前のカフェテラスでは、温泉水を使ったコーヒーを。

 

女将さんとの馴れ初めは?

飯出 正樹さんは、兄弟は何人ですか?

富岡 3人です。私が長男で、上が2人、姉なんです。

飯出 あ、お姉さんが2人いるんだ。お姉さんはどこへ?

富岡 神奈川と埼玉のほうへ嫁ぎました。

飯出 じゃあ、もう自分が継ぐ覚悟はできてたんですね?

富岡 もう、すり込みですよ(笑)。昔から言われ続けて。

飯出 選択肢はなかったわけですね。正樹さん、高校は野沢北?

富岡 そうです。大学は駒澤大学行って。ちょうど一番野球の強い頃です。

飯出 (女将の) 洋子さんも野沢?

富岡 隣の野沢南高校です。当時は女子校でした。

飯出 高校の時からもう知ってたんですか?

富岡 いや、知らないです(笑)。

飯出 洋子さんはいくつ違いなの?

富岡 同じ歳です。なので、同じ電車で通学していた可能性が高いです。

中棚荘/富岡正樹・洋子ご夫妻
▲カフェテラスの一角に置かれた愛用のバイクを前にした富岡正樹・洋子ご夫妻。

 

飯出 で、どこでそういう風になったんですか?

富岡 それは、スキーで知り合ったということになってます(笑)。当時は、高峰高原スキー場(現在の浅間2000)ですね。

飯出 そこで知り合ったの?

富岡 はい、スキーバスで。23~24歳くらいですかね。大学卒業して戻ってきてからですね。

飯出 その頃は、お父さんはご健在ですよね。中棚荘は、長いことお母さんが大女将として頑張っていたんでしょ

富岡 はい。うちの姉も2人いたんで、手伝いしてましたね。

飯出 洋子さんは4人も子供を育てられていますし、最初は旅館のことやる余裕なんてないですよね?

富岡 騙されて連れてこられたって、よく言ってます(笑)。

飯出 ははは。どこの旅館の女将も同じようなこと言ってますよ(笑)。

富岡 そうですかねぇ

 

ファミリーで膨らむ夢は?

飯出 それで、平成館は、その新しいお湯が出たときに造ったんですか?

富岡 はい、出た後ですね。1993 (平成5) 年12月30日オープンでした。

飯出 それまでは、大正館のみでやってきた?

富岡 はい。お風呂を造らなきゃというのがあったので、玄関も一緒に平成館に造りました。


▲広葉樹の茂る斜面に建つ木造2階建ての「平成館」。部屋からは千曲川も垣間見える。

 

飯出 今まで、ご苦労はどんなところにありましたか?

富岡 それまでは、家族経営というか、身内とパートのおばちゃんとか気楽な感じでやってたんですが、事業の後を継ぐようになって人事的なことや資金調達とかもあるし、気楽ではなくなりましたね。

飯出 今は、ここは会社組織?

富岡 株式会社です。

飯出 それは、平成館を建てる頃に会社組織にしたんですか?

富岡 そうですね、そのちょっと前ですね。

飯出 でも、どこも後継者で悩んでいるところが多いですけど、中棚荘に限っては後継者がいすぎてどうするのか、って感じですよね(笑)。

温泉達人・飯出敏夫

富岡 それは、もう本当にお陰様で。最初は誰も帰ってこないかと思って覚悟してたんですけど、みんな帰ってきてくれて、それぞれにやってくれています。

飯出 父親としては、子供たちの役割分担が大変じゃないですか?

富岡 なかなか親の思う通りにはいかないですね。

飯出 正樹さんとしては、子供4人がそれぞれ中棚荘に関わって仕事をしてほしい、という気持ちなんですか?

富岡 そうですね、せめて関連会社とかであれば良いと思うんですが…。

飯出 中棚荘の場合は、家業とは言えないくらいの規模になっちゃってるじゃないですか。

富岡 それぞれ、好きな分野で、グループでやってくれればと。

飯出 中棚荘は長男の直希くんが担い、直希くんの奥さんは「ブライダル」部門の責任者。長女の志穂ちゃんは結婚して横田姓になったけど、旅行部門「ヴェレゾンツアー」の責任者で、料理人の夫君は中棚荘の貴重な担い手になっていますよね。次男は別の仕事をされているようですが、3男の隼人くんがこれからワイナリーをやっていくわけでしょ?(ジオヒルズワイナリーは2018年11月1日にオープン)


▲2018年11月1日開業の「ジオヒルズワイナリー」に勢揃いした富岡ファミリー。

 

富岡 はい。まぁ、(ワイナリーが) 落ち着くのは、5年後とかですかね。

飯出 稼働しても、すぐに製品にはならないでしょ?

富岡 今のところ、ブドウは14年前から作ってるんで、稼働すればワインは出来ますけどね。

飯出 今までは、委託醸造していたのを、今度は自前の工場で作るってことですよね?

富岡 はい。

飯出 なかなか遠大な計画ですね。

富岡 「千曲川ワインバレー構想」とか言って、ライバルは増えてきちゃったんだけど(笑)。

飯出 なるほど。まぁ、でもあそこの場所 (ワイナリーが建つ御牧ヶ原) はなかなかすばらしいところだから。

富岡 最後に残った秘境とまではいかないけど、未開発のところですよね。

飯出 あそこで将来的にワイナリーがあって、ワインレストランがあると、いい場所になりますよね。

富岡 オーベルジュみたいなのができるといいですよね。結婚式もやりたいという話が出てたりもします。


▲小諸の市街地を眼下に、浅間連山を一望する「ジオヒルズワイナリー」のテラス席。

 

飯出 ブドウ園ももっと広げないと足りなくなるでしょ?

富岡 広げたいんだけど、苗木がなくて。

飯出 そうか、やっぱりそれぞれの子供が独立採算でグループ会社としてやっていけるようになるのが理想ですね。やっぱ、志穂ちゃん (長女) は旦那が腕のいい料理人だから、そこをうまく活かすと良いと思うんですけど。

富岡 飲食の方でやってもらえればね。

飯出 中棚荘とは、どういうふうにしていこうと思ってるんですか?中棚荘は直希くん (長男) が継いでいくわけでしょ?

富岡 もう、そろそろ私があんまり口出すと…。

飯出 だって、口出してないでしょ?

富岡 私というか、女将が一所懸命やってるんですけど。

 

ホントにやりたいのは旅行業!?

飯出 正樹さんは何年生まれですか?

富岡 1956 (昭和31) 年です。

飯出 ということは、いま62歳でしょ?62歳じゃ、まだ旅館から手を引くのは早すぎますわなぁ。

富岡 だから、ワイナリーを立ち上げて。

飯出 そっちの方をやりたいわけ?

富岡 いや、まだやりたいことは色々あるんだけど。

中棚荘・富岡正樹さん

飯出 まぁ、直希くんにどの段階で引き渡すことにするか、ですね。

富岡 もう、旅館部門はいつでも良いかなと。

飯出 まだ早いと思うけど、まぁ、過渡期ですね。

富岡 日本中見てると、何が良いのかよくわからない時代ですね。

飯出 まぁ、いずれ、子供が思うようにやるのを見守るしかない時期がきますよね。

富岡 もう、私も30歳でやり始めたから、(いま息子に引き渡しても) 別に出来ないことはないと思うんですよね。

飯出 正樹さん、本当はワインやりたいんでしょ?

富岡 いや、旅行会社やりたいんですよ。

飯出 旅行会社!? 企画立ててあちこち連れ歩くってこと?

富岡 はい、バス旅行。まだ、構想ですね(笑)。ワイナリーもあるし。旅行業にもなれば、北から南、どこへでも行けるようになりますから。

飯出 そうか。温コレでバスツアー企画しても良いですね。やりましょう、それ! ワイン飲み放題とかね(笑)。

富岡 旅館業の固定ではなく、もっと自由にできる形に持っていきたいですね。

飯出 まぁ、62歳ってことは、あと10年以上はいけますからね。旅館業だけでなく、支え合う何かがあると強いですよね。

~ここで、女将さん参入~

飯出 いま、いろいろ馴れ初めのこととか聞いてたんですよ(笑)。高峰のスキー場で会ったんですってね?

洋子 そんなこともありましたね。当時はそこのスキー場しかなかったんですよ。

飯出 もう、その頃のレジャーって言えばスキー場しかなかったって感じですよね。

洋子 まぁ、スケートもありましたけど。だんだんスケートからスキーになっていって。

飯出 「私をスキーに連れてって」全盛期ですもんね。その時期の洋子さんは何をしてたんですか?

洋子 OLです(笑)。ワイシャツ会社の総務やってたんです。卓球やってたんですけど、その会社が実業団持っていて。卓球の先輩がみんなその会社に入って、私も卓球がもっと上手くなりたいと思って入ったんですよ。

飯出 スポーツ一家なんですよね。子供たちも完全にその血を引いてますよね。長男、次男はレスリングのオリンピック強化選手、長女の志穂ちゃんもスキーの名手だったと聞きましたよ。で、たまたまスキーに行ったんですか?

洋子 高峰のスキー場でスキークラブがあって、そこに所属してたんですけど。そこがスキーバスというのをやったんですよ。志賀高原から草津に降りる山スキーとか、白馬も行きましたね。で、白馬のときに、たまたま席が隣だったんですよ。

飯出 なるほど~。


▲敷地内の一角に移築された食事処の「はりこし亭」は国の登録有形文化財だ。

 

洋子 すごいでしょ~、ドラマみたい(笑)。で、それがきっかけで話し始めて。スキーやる人って、上手な人に憧れるんですよ。で、主人は上手だったんですね~。だから、もし下手だったら一緒にはなってないかも(笑)。

飯出 洋子さん、正樹さんとお付き合いして、しばらくして旅館の息子だとわかるわけでしょ?しょうがないって覚悟決めたわけ?

洋子 実家は結構反対しましたね。特に祖母が反対して。(旅館業は) 水商売だって言いましたわ。

飯出 あぁ、当時はね。

洋子 頑張っても、それ以上のことやらないと認めてもらえないって言われて。

飯出 でも、その頃はお姑さんはバリバリだったわけでしょ?結構厳しいお姑さんでした?

洋子 そうですね。私が花生けてるそばから、後ろで抜いて生け直してましたから(笑)。形容詞を使わないお母さんでしたね。もう、単刀直入に「こうしなさい」「ダメでしょ」っていう感じで、遠慮がないっていうか。簡単な言葉で言うと、きついお母さんって感じで。


▲平成館の廊下はギャラリー風で、寄せられた絵手紙などが展示されていることも。

 

富岡 旅館にはそういう人いっぱいいるでしょ?今時の嫁さんは逃げ出しちゃいますね。

飯出 ほとんどそうですよね。でも、4人も子供育てたわけだから、嫁いできてしばらくは旅館のことできなかったでしょ?

洋子 とんでもございません (笑)。つわりと戦いながら…。私の実家の父と母がすごくよく面倒見てくれて、明け方来ると子供連れてって向こうで見てくれて。

飯出 あ~、その頃保育園とか、ないですもんねぇ。

洋子 だから、実家の父と母がいたから育てられたっていう気がしますね。

飯出 まぁ、当時は子育てだからと言って、家業を手伝わない嫁はありえないって時代でしたよね。

洋子 子どもおぶってお客様にお料理出したり、布団敷きやったりしてましたね。主人もおぶって料理してましたね。

中棚荘/お煮かけそば
▲「はりこし亭」の昼食に提供される人気メニューの郷土料理「お煮かけそば」。

 

飯出 はぁ~。でも、女将さんのキャラクターで政財界とか芸能界とか芸術家とか、そういうお知り合いが中棚荘を贔屓にしてくれているというのはありますよね。

洋子 そうですね。それがプラス思考になって。

飯出 この仕事じゃないと出会えない、という人と交流を持っているのは財産ですよね。

洋子 そうですね。そういうふうに思えるようになって、さらにお金までいただいて、なんて良い商売だろうって(笑)。

飯出 それで、いつのまにか「正樹さんはお婿さんだろう」と思われるほどになっちゃった (大笑)。まぁ、大変なときはもちろんあるでしょうけどね。

洋子 捨てる神あれば、拾う神じゃないですけど。

富岡 昔は、旅館が潰れるなんて考えられなかったですけどね。バブルで大きくしちゃったところはまぁわかりますけど。

飯出 最近、家業と企業ははっきりと分かれてるでしょ。家業でやってるところは労働時間はめちゃくちゃ長くて、そんなに大儲けはできないけど、なんとかみんなやってこれてる。企業になるとそうはいかないでしょ。そういう意味では、どういう宿であるのかというのは、かなり信念としてやらないと難しい時代なのかなと。

富岡 民泊も出てきましたから、これからどうなるかですね。

飯出 洋子さんは、4人の子供が将来的にこうなってほしい、と思い描いていることはありますか?

洋子 私は、それぞれの個性を生かしつつ、それぞれの立ち位置からお互いに協力し合える、そんな経営を目指して行ってほしいと思っています。

飯出 なるほど。それぞれに頑張ってますもんね。いずれにしても、今後がますます楽しみではありますね。

中棚荘の富岡正樹さんと温泉達人飯出敏夫

 

…あとがき…

富岡正樹さんは、育ちの良さを窺わせる紳士然とした物腰が印象的。
その語り口調も温厚そのものだ。
一方、接客の陣頭に立つ洋子夫人は弁舌さわやかというか、機関銃トークのパワフルレディ。
最初にお会いしたときからしばらくの間、正樹さんはお婿さんに違いない、と信じていたのは私ばかりではない(笑)。
このご夫妻はとにかく行動的。
2人でバイクを駆ってツーリングもすれば、剱岳にも登り、西穂高岳からジャンダルムを越えて奥穂高岳まで縦走もしちゃうというから、半端ではない。
救急車どころかドクターヘリだって乗った経験があるとか、ないとか。
そんな夫妻が経営する宿は、文学の香りがするクオリティの高い宿ときているから、まぁ不思議な気がしないこともない。
成長した子どもたちに囲まれ、旅行業やワイン醸造にまで乗り出した意欲、胆力は並大抵のものではない。
その活躍と発展ぶりを楽しみに、見守らせていただこうと思う。

(公開日:2018年12月16日)

◆カテゴリー:湯守インタビュー


 

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中棚温泉・中棚莊/りんご風呂

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