会津若松、東山温泉の至宝の湯を継承する湯守の矜持とこだわりとは?
かつて山形県の上山温泉、湯野浜温泉とともに“奥州三楽郷”と称えられた福島県会津若松市内に君臨する東山温泉。
あの凄惨を極めたという戊辰戦争での破壊と焼失を免れたことは幸運だったと思わざるを得ないが、さらに歴史ある建物を守り続ける名宿が現存することは奇跡以外のなにものでもない気がする。
東山温泉きっての名宿で、国の登録有形文化財第1号でもある歴史ある建物と日本旅館の伝統的なもてなし方を、頑固なまでに守って奮闘する6代目湯守の矜持とこだわりに迫るインタビュー。
平田 裕一 (ひらた ゆういち) /1961 (昭和36) 年2月2日、会津若松市東山温泉きっての老舗の名旅館「向瀧」の長男に生まれる。地元の小・中学校を出て、名門・会津若松高校から青山学院大学経営学部に進学。大学時代は音楽の世界に没頭した。卒業後は都内の旅行会社に8年間勤務したあと帰郷し、のちに家業を継承した。「ブレないために・・・媚びない、群れない、真似しない」をモットーに、旅館文化を大切に守る唯一の宿になってもいいとの覚悟と矜持を堅持しつつ、頑ななまでに老舗宿の伝統を継承することにこだわり続ける6代目館主である。息子2人の父。
会津藩の指定保養所だった老舗宿
飯出 コロナ禍の外出自粛で2回キャンセルさせてもらって、3度目の正直ですかね。ようやく来れました。
平田 ちょうど昨日から「雪見ろうそく」を立てられたので、いいタイミングだったと思います。
飯出 4日前にお電話したときは、今年は雪が少ないからできないかもしれないとおっしゃっていたので運が良かったです。やはり、「雪見ろうそく」があるとないとでは、冬の風情が全然違いますよね。
平田 えぇ、違いますね。
飯出 ここは社長室ですか?
平田 まぁ、社長室兼事務室兼廊下ですかね。
飯出 あら、お子さんが寝てる。可愛いですね。
平田 保育園が休みになっちゃったので、(この子の母親に) 夜の時間どうしても手伝って欲しいときは私が預かって働いてもらってるんです。
飯出 大人しくしてるんですね。平田さんが面倒見てるんですか? なんか平田さんに似てるし、お孫さんみたいですね(笑)。
平田 えぇ。もう2年目なんですけど、ご飯食べさせるのとか、最初はミルクだったし、オムツ替えもしますし(笑)。
飯出 前に記事にさせてもらったときに、いろいろ伺ってはいるんですが、まず歴史的なことからお話聞きたいんですが、ここは会津藩の指定保養所だったんですよね?
平田 はい、会津藩の上級武士が使った保養所と言われています。
飯出 そのときは、宿泊施設はあったんですかね?
平田 多分、部屋はそんなに多くはなく、泊まれたかどうかはわからないですけど、部屋はあったみたいです。
▲向瀧の威風堂々たる外観。この玄関がある棟が国登録有形文化財の第1号だという。
建物は会津の大工と関東の宮大工の競作
飯出 それで、明治の世になってから平田家で譲り受けて、旅館として営業されたのは明治6年 (1873) ってうかがってますけど、それで今ここにある建物はその後に建てたものなんですよね?
平田 そうです。江戸時代は、池のところの小さい2つくらいの棟しかなかったので、明治の終わりくらいに玄関から離れの間のところくらいまでが出来て、その後また改装しているんですけど、最終的に今の状態になったのは昭和10年ごろ、山沿いの棟は1年かかって完成しました。
飯出 そのときは、会津だけじゃなくて、各地の宮大工が競って建てたとか。
平田 会津の大工さんチームと、関東からも宮大工さんが来て、合体で作った木造建築です。会津の建築文化って元々越後から入ってきたと言われていて、おそらく雪の重さに耐えられる建て方が基本だと思うんですけど、それに加えて関東から来た大工さんが伊豆とか箱根に見られるような、ちょっと粋な細工を入れていったんです。
飯出 なるほど。
平田 例えば紅葉の間だと、紅葉の床柱にもみじの木、明かり取りに紅葉型のデザインが入っていたり、桔梗の間は節袴っていう工法の柱があり、桔梗の花が咲いて実になって鳥が運んでいくっていう、桔梗の部屋にしかない1本のストーリーになっています。
飯出 へぇ~。
平田 ちょうど入って左側の犬養木堂の書の左側にある柱なんですけど。
飯出 それは、各部屋を担当して競って建てたわけじゃなく、装飾系は関東の大工さんがという合作なんですかね?
▲すべて意匠が異なる客室は、大工が腕を競い合った和室24室。写真は「もみぢ」。
平田 本間さんという会津の棟梁と東京から来た福岡さんという棟梁がどういう話し合いで進めていったかまではわからないんですけど、骨組みは雪に強い建物ということで会津チームが担当したんじゃないかと。以前、福岡さんのご子孫の方が泊まりに来たことがあるんですけど、「おたくのおばあちゃんは、うちの親には相当に頭にきてるだろうね」と。
飯出 ほう。
平田 なんでと聞いたら、職人さんって数日間煙管を咥えたまま動かないそうで、アイデアが閃いたら一斉に材料を発注して始めて作っていくから、設計図もないし何もなくずーっと座って考えるそうです。そういう作り方を職人さんができた時代なんですね。そんな話を聞いたので、なんだか建物が生きている感じがするんですよね。
飯出 で、ここは会津藩が戊辰戦争でやっつけられたあとですよね? 引き継いだ記録などは?
平田 何も記録は残ってなくて、明治4年に廃藩置県が行われ、その流れで会津藩の持ち物を、明治
飯出 じゃあ、明治政府になってからですね。
平田 私は勝手に、殿がやってきて「平田頼むぞ」って言ったと、思ってるんですけど(笑)。
▲玄関から進むと、手入れされた中庭沿いに磨き込まれた廊下が宿泊棟へと導く。
4代までは女性が当主だった
飯出 その当時、平田家は会津にいたんですか?
平田 初代から4代目までは女性経営者の名前で、5代目が私の父で初めて男性になるんです。
飯出 ということは、平田さんは6代目ですね。4代目までは有力者が好きな女性にやらせるっていう、そういう流れですかね?
平田 そういう感じだったのか、どうか。東山の古い方に聞いた話では、かつては夕方になると宿から交番に宿泊者名簿を届けに行くんですって。そのとき、男性の警察官に男性の経営者が届けるよりは女性の経営者が持って行った方がことがうまく進むっていうことで、女性経営者の名前が多かったって聞いたことがありますけど。
飯出 なるほど。それは、向瀧だけじゃなく?
平田 えぇ。本当かな? って思うんですけど。4代目の旦那は、バス会社 (今の会津バス) を2人の仲間と3人で立ち上げたそうなんですよ。なので、旦那は他でもっと仕事をして、旅館は奥さんが頑張るみたいな感じがあったのかな。
飯出 4代目は、おばあちゃんになるわけですよね?
平田 はい。私は3代目とは10ヶ月だけこの世に一緒に生きてたらしいです。多分会ってるんですけど、覚えてないですね。私は昭和36年2月2日に生まれたんですけど、3代目はその年の12月に亡くなってますので。
飯出 あぁ、そうですか。
平田 なので、私ももうすぐ62歳になります(笑)。
飯出 あぁ、まだ若いですね~(笑)。平田さんはここで生まれたんですか?
平田 病院はたぶん会津の病院なんですけど、生まれた後の1年くらいは東京の世田谷区にいたらしいです。
飯出 小学校、中学校、高校は会津?
平田 昭和36年12月に4代目が亡くなった後、その後に父が呼ばれているから、私は2歳くらいに会津に来たんじゃないですかね。
▲部屋の窓辺から池泉式庭園を望む。冬は「雪見ろうそく」が幻想的な世界を演出する。
青学で音楽に没頭した青春時代
飯出 平田さんはご長男でしょ? 他にご兄弟は?
平田 私の下に男が2人いて、3人兄弟です。
飯出 高校は会津高校?
平田 そうです。大学は、青山学院大学で、学校に教科書持って行かないでエレキギター持って通っているみたいな学生でした。
飯出 へぇ~。青学も音楽盛んですもんね。サザンオールスターズの桑田さんとかね。
平田 桑田さんたちが作った音楽サークルベターデイズに入ったんです。サザンの後ろでギター弾いてる斎藤さんは2年先輩なんです。
▲向瀧の看板風呂「きつね湯」。風格漂うシンプルなタイル造りで、湯はかなり熱い。
飯出 へぇ~、そうなんですか。音楽の方へ進む気はなかった?
平田 デモテープとか作ってました。そのサークルは誰かのコピーをするのではく、自分たちで歌を作って発表することが多くて。
飯出 なるほど。学部はなんだったんですか?
平田 経営学部です。あまり勉強していないですけど(笑)。
飯出 卒業して、すぐこちらに戻られたの?
平田 卒業した後は旅行会社に。下北沢の営業所に勤めました。その営業所はプレハブだったので、ロマンスカーが通ると揺れるような建物でした(笑)。
飯出 何年くらいいたんですか?
平田 8年間です。
飯出 え、そんなに長くいたんですか? そしたら戻られたときは30歳くらいですよね?
平田 31歳のときに戻ってきました。
▲玄関を入ってすぐにある「きつねの湯」の入口。
宿は国登録有形文化財の第1号
飯出 これだけの器だと大変ですよね?
平田 う~ん、比較するものがあると大変って感じると思うんですけど、これだけってなるともうやるしかないっていう状態なので。でも、最近、「人生はがっかりの積み重ね」っていう答えが出てきたような(笑)。
飯出 え~、本当ですか? こちらの建物は国の登録有形文化財の第1号ってうかがいましたけど、第1号っていうのは一番最初に国の登録有形文化財って認められたグループかなんかの1号ってことですか?
平田 平成8年に文化財保護法っていうのが改正になって、登録制度が出来たんです。そのとき、全国で117物件が登録されたんですけど、そのときに登録されたのがこの宿なんです。それで第1号登録物件っていわれています。
飯出 なるほど。
平田 文化庁から届いた登録証に記載された登録番号の最初に県の番号が
飯出 じゃあ、やはり登録第1号だったんですね。
平田 旅館は古い建物も多いので他の宿が入っていると思ったら、うちしかなくて(笑)。東大の赤門とかと並んでうちも登録されて。何やっても1番取ったことないんですけど、これは1番目の登録になりましたね(笑)。
▲ほぼ適温に調整された「さるの湯」。男湯には女神らしきレリーフがあって、目を引く。
飯出 へぇ~。登録有形文化財のお宿で会を作ったりしてますけど、向瀧さんはそういうのに加わってないですよね?
平田 加わってないですね。
飯出 ああいうの、基本的に嫌い?(笑)
平田 31歳のとき帰ってきて、あの当時ある旅行会社の「日本の宿」というのに入って、会合があると参加して旅館経営者仲間を増やしたりはしたんですけど。やはり旅館の経営スタイルって昭和の代から続いているところが多くて、しかし昭和の代から脱皮しないと現代のお客様に対応できなくなっているのに、なかなか脱皮できない状態に悩んでいました。それで、2002年くらいから経営の質を上げましょうっていう日本生産性本部がやっているプログラムを学んでチャレンジしたら、段々と「日本の宿」とのギャップが出てきてしまって。
飯出 なるほど。平田さん、公的な役職は一切やってないんですか?
平田 えぇ、友達いないので(笑)。一時期、2年だけやったことあるんですけど、やっぱりダメでしたね。3年任期を2年でぶん投げて辞めました(笑)。
飯出 ははは。友達いないとは言っても、高校の友達とかはいるでしょ?
平田 高校の友達はいるんですけど、滅多に会わないし。同業者で話すのは日本全国で2人だけですね。その2人とは全然タイプが違うんですけど、年末に会っていろいろ話しますね。
飯出 同業者は2人だけですか? まぁ、2人もいればいいですかね(笑)。
▲こちらは「さるの湯」の女湯。男女ともに大きな湯船で、チェックイン~9:30まで入浴可。
ブレないために・・・媚びない、群れない、真似しないをモットーに
平田 自分の中で大事にしているのは、「媚びない、群れない、真似しない」なんですが、そのためには一人で魅力を生み出していかない限りは、他力で救われることはないだろうと。東日本大震災のときも、太平洋側から原発事故で逃げてきた人を会津若松市として受け入れるわけじゃないですか。しかし、1年前から予約をして、向瀧の夜桜を楽しみにしているリピーターさんが沢山いらっしゃるんですよ。特に4月の3~4週の週末は、中庭向きの客室は争奪戦ですから。
飯出 1年前からですか。
平田 世の中は放射能を気にして出かけられない雰囲気になっているのに
飯出 なるほど。
平田 まぁ、普通の日はガラガラですよ。他の宿はみんな原発避難の人でいっぱいですけど…。そういうのを見ながら、自分の判断間違っていたかな? と思いながら。こんなときも私は群れることはしなかったんですけど、みんなから攻撃されて非国民だとか言われて。
飯出 はぁ~、非国民ね。そう言われちゃうんですか?
平田 でも、リピーターさんからあのとき泊まりに行けてよかったって言われて。あと、そのときは言わないんですけど、町の人たちからもお前のところは受け入れるべきじゃないよな、ってしばらく経ってから言う人もいました。
飯出 結構、他の宿からも風当たりは強かったんじゃないですか?
平田 もう、「なんだ、お前のとこだけ」みたいな感じでしたよ。まぁ、元々あまり友達いないので(笑)。なので、本当に自分一人で考えて、こういう建物を好きなお客様のために温泉はここまで管理しないといけないとか、ここはこだわらないといけないというのをいつも考えているので。そういったお客様にはすごく喜んでもらえるんです。
飯出 難しいところですよね。
平田 2つ追いかけちゃダメなんです。
飯出 追いかけられないですよね。
平田 どっちにも不満は出てしまうので。修学旅行と高級な人向けを一緒にやろうとすると絶対失敗します。修学旅行シーズンに、夕方になると突然お客さんが来て、他の宿に泊まったら修学旅行の団体が一緒だったから嫌なのでここに泊まれますかって方がいらっしゃって。種類の違うターゲット層を一緒にしちゃうと上手くいかないですよね。
飯出 差別化というか、客層っていうのはありますからね。しかし、平田さんが追求している、3階まで食事を運ぶという伝統的なもてなし方を頑として守り続けているじゃないですか。これがすごいなと思うんですが、その辺はどうなんですか?
▲2階から3階へと続く急勾配の木製階段。ここを食膳を抱えて運ぶもてなしがすごい。
平田 旅館の文化というのを大切にする宿が1軒くらいあっても良いでしょうという考え方です。全部合理的とか、欧米的なスタイルになってきてはいますけど、日本だよっていう胸張って言えるような宿があっても良いかなと。そういう視点で、我々の社員の働き方は階段をたくさん登ったり降りたりしなきゃいけないし、掃除機使わないでハタキとホウキで掃除したり、そういうことをずっと続けていけるというのが我々が残していかなければいけない分野に入ってきているんじゃないかと思っています。建物や源泉かけ流しを残す以外でも、残せるものはいっぱい残さないと。
飯出 それで、今、旅館業界はすごく人出不足が深刻ですけど、こちらはそうでもないんですか? みんな、わりとスタッフの方、お若いですよね?
平田 そうですね。毎年2~4人くらいは大学や短大卒の新卒が入ってきていますね。以前、急に人が減ったときがあって、そのときでも部屋出しのスタイルを変えたくないというのがあって、これはどうにかしないと、と。ちょうど来日する外国人が急増したときで、旅館にもどんどん就職している人がいると聞いていたんですね。それで、2016年か2017年に日本学校から採用してもらえないかとメールをもらっていて、そのときは採用できなかったのですが、2019年に人が減ったときにそのメールを探して連絡し、そのとき外国人を2人採用しました。今も、その中の1名は働いています。スタイルを残すためには、採用する人たちは変えていかないと。
(※2022年10月現在はすべて日本人スタッフ)
飯出 ある程度、体力がないと、ここは持たないですよね? 2階、3階をお膳を抱えて上り下りするわけだから。
平田 3ヶ月働くと、食器持って上がるので腹筋が割れるそうです(笑)。みんな素晴らしいスタイルになるそうですよ。
飯出 すごいですね。平田さんが経営者として、社員がずっと働いてくれるために一番気をつけていらっしゃるのはどういうところですか?
平田 社員の人生の中で、女性は結婚や出産もあるかもしれないし、ちょっと休んだ方がいいよとか、お腹大丈夫とか、そういう心理状態になれるかというのが大事かなと。自分の家族だったらどうする? と思って判断しています。今は、子育てをしながら働き続けてくれる社員が5人います。
▲食べきれないほどの献立の朝食の膳。おなかを減らすためにも朝風呂は必須。
「雪見ろうそく作り」もSNS発信も全部自分で
飯出 平田さん、お子さんは?
平田 男2人です。
飯出 継いでくれそう?
平田 いや、やっと上が就職できてセールスマンを始めたみたいで。下は薬学の勉強をしています。
飯出 へぇ~。まぁ、でも、平田さん若いから、先のことはまだいいですかね。
平田 私も、大学生のときは継ぐつもりなかったですから。音楽やりたかったから(笑)。
飯出 あぁ、なるほどね(笑)。「雪見ろうそく」はいつからやってるんですか?
平田 2001年からです。最初、8本作って試験点灯してたんですよ、どんな風に灯りが出るんだろうと思って。今のスタイルと全然違うんですけど、やってたら調子よく燃えてたんでいいじゃんと思ってご飯食べてたら、なんかきな臭いぞと思ったら竹筒がボーッと燃えていて。
飯出 燃えてた? それはヤバいですね。
平田 竹筒にろうそく灯して旅館燃やしたら、お前何やってんだって散々言われるんだろうなと思って、企画倒れかなと思って頭真っ白になったんですけど。
飯出 「雪見ろうそく」は、平田さんが考案されたの?
平田 各地で「ろうそく祭り」をやっているのを見たときに、雪の中にあるろうそくってすごくいいなって思ったんですよ。それでひらめいたのが「花の咲かない雪景色に灯りの花を咲かせたい」と。中庭で行うにはどうしたら良いかなと考えて真似して作ってみたんだけど燃えちゃったんです。燃えちゃったんですけど、誰かに頼んで作ってたら続かないと思うんですけど、自分でノコギリ引いて、ドリルで穴空けて大変な思いして作ったら、どうしてもやりたいと(笑)。
飯出 今の、いっぱいあるのは、社員とかで作ったんですか?
平田 全部、私が作りました(笑)。
飯出 全部作ったの!?
平田 今年30本、新しいのを作りましたけど。
飯出 へぇ~、好きなんですか? そういうのが。
平田 う~ん、好きになっちゃった。自分でなんでもやるのが好きなんです。ホームページ作ったり、写真を撮ったり、「雪見ろうそく」を作ったり。
飯出 向瀧のSNS、すごく頻繁にアップされているけど、あれは平田さんがやっていらっしゃるんですか? 写真も?
平田 そうです。本気撮りとiPhone撮りとあるんですけど。
▲冬の向瀧の名物「雪見ろうそく」。温暖化で雪不足気味なので、観られればラッキー!
継続して旅館を開け続けるのが大切
飯出 僕らも3度目の正直で来れたんですけど、コロナになってお客さんが来れないときありましたでしょ? 何を一番強く感じました?
平田 コロナもですが、東日本大震災とか、お客様の数が急激に減ってゼロ状態が続いたときに、我々は営業をやめてはいけないというのを一番感じていたので、コロナになって緊急事態宣言が出ても、ずっと営業していたんですよ。
飯出 「旅館は開いてますよ」というのをずっと発信していた?
平田 ずっと発信してました。東日本大震災のときもですが、今回のコロナも今日はお客様ゼロですというのは関係なく、「桜が咲きました」とか、これまでと同じスタンスで発信していました。
飯出 コロナ禍で休業はしなかったんですか?
平田 ほとんどしていないです。最初のときのGWに入った際、市長から休んでくれとFAXがきて。それで6日間だけ休みました。
飯出 最初のときですね。
平田 その後はすぐ再開して、継続して旅館を開け続けるというのは自分にとっては大切なんだなと。これ1回休み始めちゃったら戻すの大変ですよ。リハビリ必要になっちゃう(笑)。
飯出 常連さんからは、何かメッセージきました?
平田 震災のときは、3月末は宅急便でお酒とか鯉のうま煮を発送するのがすごく多くて、リピーターさんから支援購入してもらいました。中には鯉の甘煮を30個送ってくれというお客さんがいて、そんなに食べきれないでしょって思うんですけど。毎日宅急便を沢山発送していて宅急便屋さんが不思議がってました。他の旅館は避難の人たちが泊まっているから1個も荷物出て行かなのに、なぜ向瀧だけが?と。
飯出 常連さんはこういう時期だからということで、購入して応援してくれたんですね。ここの名物の鯉のうま煮は、いつから続いているんですか?
▲向瀧の伝統の味「鯉の甘煮」。食べきれない場合は折に詰めて土産に持たせてくれる。
平田 あれは、江戸時代の天明の大飢饉のときに、食べ物がなくなって会津の御家老様が鯉を養殖する命令を出したんです。会津ではタンパク源や必須アミノ酸を摂るために鯉を食べるようになったんですけど、御家老様が自ら包丁持って調理の仕方を広めたというんですが、お砂糖という甘い調味料は当時貴重なものでなかなか手に入らなかったんですが、砂糖を入れて甘く煮込んだのが鯉のうま煮で、海の鯛に匹敵するのが山の鯉なんです。なので、当時は位の高い人しか食べられなかったみたいです。
飯出 それを旅館の看板にしたんですね? 最初から?
平田 自分が戻ってきたときも、鯉の甘煮は毎日煮込んでいました。ただ、昔は鯉の甘煮は別注文しないと食べられないプランというのがあったんですけど、名物を食べるのにそれを別料金ってけしからんと思って、全部料金に含まれるように私がやり始めました。鯉の甘煮、ニシンの山椒漬け、自分の代になってこづゆもその中に入れて、その3つの郷土料理を味わえるようにしたんです。
飯出 そうなんですか。なるほどねー。
▲会津地方の郷土色たっぷりの料理が並ぶ夕食の膳。地酒がすすむ小皿も多いのも魅力。
浴槽増やして源泉かけ流しをやめるのは邪道
飯出 向瀧として、自家源泉はいくつあるんですか?
平田 3本です。ほとんど同じ場所に自然湧出していて、落差そのまま1本のパイプで持ってきているんです。
飯出 どのぐらい離れているんですか?
平田 上の橋くらいです。泉温は57~58度ありますね。
飯出 で、向こうに行くに従って、泉温は下がり気味になるってことですかね?
平田 はい、パイプを通すと泉温は下がりますね。
▲ファンを魅了する、カルシウム成分が付着した「きつねの湯」
飯出 東山温泉では、源泉はそれぞれのお宿で持っている感じなんですか?
平田 いや、そんなにないですね。昔、発見された頃は源泉11っていわれていました。
飯出 でも、まぁ、東山温泉としてはそこそこお湯の量は間に合ってるんですか?
平田 いや、ちょっと足りていないんじゃないですかね。昔の小さい旅館だった頃は大丈夫だったと思うんですけど、どんどん旅館が大きくなってきて、それに合わせてお風呂も大きくなるので。
飯出 そうですよね。そうすると、加水・加温をするしかないですよね。一時期、露天風呂ブームだったでしょ? お客さんに「露天風呂ありますか?」って聞かれたと思うんですけど、頑なに内湯だけにしたのは意味があるんでしょ?
平田 内湯だけにこだわったというよりは、源泉かけ流しにするにはお風呂を増やすことは不可能なので。そもそもここの浴槽は、お風呂付きの部屋も合わせて10ヶ所もあるので多い方だと思うんですよね。
飯出 あ、そんなにあるんですか。相当、このお宿は恵まれてますよね。
平田 露天風呂ブームに乗って、浴槽増やして、源泉かけ流しをやめるのは邪道かなと。
▲3~4人用の貸切風呂は3ヶ所。空いていれば自由に内鍵をかけて利用するスタイル。
飯出 適正なお風呂の大きさでまかなっていくしかないですよね。今、東山温泉は何軒お宿があるんですか?
平田 今、15軒くらいですね。最盛期は33軒ありました。
飯出 この向瀧という名前はどういうとこからきてるんですか?
平田 順階瀧というのがあるんですけど、そこに向かっている宿ということで向瀧という名前がついているそうです。
(今、地図には順階瀧の表記はなく、向瀧と書かれている)
飯出 昔は歓楽的な雰囲気もあったでしょ? いまでも芸者さんはいるんですか?
平田 今も、10人くらいの芸妓さんがいて活躍してますよ。置き屋さんもあって、芸の練習もされてますよ。
飯出 そうなんですね。それはいいですね。向瀧は今、お部屋は24室ですか?
平田 はい、そうです。
飯出 昨日は満室でしたよね。でも意外にお風呂では人に会わないんですよね。特に「きつねの湯」では。熱いからですかね?
平田 はい、お風呂で誰にも会いませんでしたって方は多いです。「きつねの湯」は一度入ってやみつきになる方もいるんですけどね。
飯出 僕は「きつねの湯」くらい熱くないと物足りないんですけどね。もはや、やみつきになってるのかもしれません(笑)。
…あとがき…
向瀧に泊まったのは3度。
前回は大学の先輩を案内して泊まった。
それ以降、温コレインタビューを兼ねて家族で泊まりに行く計画を立てたが、新型コロナの感染拡大による県外への移動自粛要請が発令されたため直前に2度もキャンセル。
ようやく念願が叶い、3度目の訪問となった。
向瀧は国の登録有形文化財の建物はもちろん素晴らしいが、特筆すべきは湯づかいの見事さと、伝統的なもてなし方の堅持ではないだろうか。
温泉の素晴らしさは筆者の3本の指に入ると言っても過言ではないが、それよりも驚くのは、3階まで続く急勾配の階段をものともせず、いまもって部屋食のお膳を届けるという伝統的なもてなし方を頑固なまでに貫く姿勢にある。
そのすべてが、館主の強固な意思貫徹がなければ実現できないことだ。
一見、温和な紳士然とした平田さんの、どこにそんな強固な意思が内包されているのか、とお話するたびにしみじみと思ってしまうのだ。
(公開日:2022年10月13日)
◆カテゴリー:湯守インタビュー