伊豆・湯ヶ島の国の登録有形文化財の名宿を継承した、湯守の覚悟とは?
川端康成、井上靖文学にもっとも深い影響を与えた中伊豆の名湯、それが天城湯ヶ島温泉である。
猫越川と本谷川が落ち合い狩野川となる合流地点に、国の登録有形文化財の重厚感あふれる宿がある。
創業は1874 (明治7) 年、金山の経営者が訪問客の迎賓館として建造したと伝わる国の登録有形文化財の名宿である。
伊東温泉の老舗宿の娘と結婚し、その継承者となるはずだった運命が一転。
この伊豆を代表する天城湯ヶ島温泉の名宿を継ぐことになった、湯守の心意気に迫るインタビュー。
※「落合楼村上」は2019年9月26日に屋号を「おちあいろう」に改め、リニューアルオープン。こちら記事はリニューアル前に行ったインタビュー内容となります。
村上 昇男 (むらかみ のりお) /1964年、伊豆半島の付け根に位置する静岡県長泉町に農家を営む小坂家の次男として生まれる。東洋大学工学部卒業後、地元の電機メーカーに勤務。1991年、27歳のときに伊東温泉の老舗「いづみ荘」の長女伊津子さんと結婚。専務として旅館業を担うが、予期せぬ出来事により1998年旅館を退任。独立していたが、2002年春、天城湯ヶ島温泉の老舗宿を継承することとなり、同年11月に落合楼村上として再出発し、今日に至る。現在、天城湯ヶ島温泉旅館組合の副組合長を務める。(2017年1月現在)
伊東温泉の老舗に転職!?
飯出 村上さん、何年生まれですか?
村上 1964 (昭和39) 年12月24日のクリスマスイブ生まれでございます。
飯出 ということは、現在53歳ですね。お生まれは伊東市なんですか?
村上 生まれは、長泉町といって三島市の隣町ですね。そこで、祖父母の代からずっと米や野菜を作ってきた農家の息子です。まぁ、次男ですからね、ずっと好き勝手できた感はあります。
飯出 なるほど。兄弟は何人ですか?
村上 兄と2人です。
飯出 ちょっと話が飛ぶんですけど、それで伊東で名旅館を経営されていたんですよね?
村上 家内の実家で、義理の両親が伊東温泉で「いづみ荘」という旅館をやっておりまして。
飯出 あーっ、そういうわけなんですね(笑)。老舗なんでしょ?
村上 私が当時入ったときで創業80年でしたから、大正3年くらいの創業だと思います。
飯出 私、「いづみ荘」さんには伺ったことないんですけれども、相当な高級旅館なんでしょ?
村上 義父母が営業していたとき、最初の頃は昭和何年ごろかわかりませんけれども、宿泊代が1人9000円くらいという旅館から出発し、父と母がいろいろ改革をしながら、最終的には1人2万5,000円くらいでしたね。
飯出 そのご両親というのは何代目ですか?
村上 3代目ですね。で、僕らが4代目のはずだったんですけどね。
飯出 はずだった?ってことは、4代目を継ぐ前にいろいろあったんですね?
村上 義理の叔父が継ぐことになり、私たちが継ぐ必要がなくなってしまって、外に出ることに…。結局、その後「いづみ荘」は星野リゾートの「界伊東」に変わってしまいました。
飯出 そうなんですか。村上さんたちが「いづみ荘」を離れたのは何年頃?
村上 1998 (平成10) 年ですね。
飯出 まだそんなに経ってないですね。村上さんが奥さま (伊津子さん) と結婚される前は何をされてたんですか?
村上 大学卒業後は電気メーカーに勤めました。地元に大きなセブンイレブンのレジ作っているメーカーがありまして、今の会社名は東芝テックになってますが、そこでサラリーマンをずっとしておりました。
飯出 サラリーマン生活はどのくらい?
村上 6年ぐらいですかね。
▲上流の「出会い橋」から見た本谷川と猫越川の合流点。左岸に「落合楼村上」がある。
飯出 大学は東京ですか?
村上 埼玉の鶴ヶ島という田舎にある東洋大学の工学部です。4年間、陸の孤島で暮らしておりまして(笑)。
飯出 その工学部では専攻は何を?
村上 機械工学を。
飯出 あぁ、それで電機メーカーに勤められて。奥さまとはどういうなれそめですか?
村上 私の会社の先輩の友だちでした。会社の先輩が伊東市の宇佐美出身の方で、家内は伊東市内ですから。ウィンドサーフィンのサークルの仲間の1人だったようで。
飯出 え、村上さん、ウィンドサーフィンしてたの?(笑)
村上 私はサーフィンのほうです。
飯出 波乗りやってたんですか。奥さんは長女?
村上 はい。3姉妹で、男は誰もいなくて。長女として跡継ぎだということで。その頃、彼女はホテルオークラに勤めていて。
飯出 結婚を機に戻られたんですか?
村上 そうですね。ホテルオークラの予約にずっといましてね。
▲館主の村上昇男・伊津子ご夫妻。絵に描いたようなおしどり夫婦とお見受けした。
湯ヶ島の老舗宿を継承することになった経緯
飯出 で、その1998 (平成10) 年に「いづみ荘」を離れたとき、落合楼はどういう状態だったんですか?
村上 伊東の旅館をやっているときは、「落合楼」の息子さんとは青年部で交流があったので、当然ここに旅館があることは知ってましたけれども。僕らの方は旅館から離れて独立後3年ぐらい経っていましたし、「落合楼」がどういう状況で、どんな風になってるかはまったく知らなかったですね。
飯出 え!そんなに間があったんですか?何の仕事してたんですか?
村上 結局、自分ができることを考えて、パソコンを人に教えるようなトレーニングスクールのようなことを伊東でやり始めて、しばらくして職業訓練校の講師みたいな形でやって、しばらくはそれでずっと生計を立てていましたね。
飯出 なるほど。そんなときにここが売りに出ているのを耳にされたというわけですね?
村上 というか、金融機関からのお話ですね。伊東の「いづみ荘」から出るときのメイン銀行の、当時伊東の支店長さんだった方が3年経ったときに、本部に移られて企業再生部の部長さんをやられていて、3年ブランクがあった中で、突然私たちの前に現れて「元気にしてるか?」と(笑)。「今、何やってるんだ?まだ旅館をやる気はあるか?」と声をかけていただいたのが、きっかけで。
飯出 そのときは、もうここはやめてたんですか?
村上 まだ営業されていました。2002 (平成14) 年の5月頃に、私たちに声をかけていただいて。金融機関も、1日でも早く処理を進めたいという状況ではあったようですね。
▲宿泊棟「眠雲亭」3階の「桐壺」の間。ツインベッドの寝室もある和洋室だ。
飯出 その時は、向こう (対岸の鉄筋建ての建物) もこっち (現在の落合楼村上) も両方やっていたんですね?
村上 そうですね。前経営者は、「この文化財の建物を維持して継続して営業される方がいらっしゃれば、自分は喜んで身を引きます」ということだったようですね。それで最初に声をかけていただいたのがきっかけで。
飯出 それで奥さまと、どうしようかって話になったわけですよね?
村上 まあどうしようかというか、うちのカミさんも、両親も、また旅館ができるという思いがあるから、何の条件もなくウェルカムなわけですよね(笑)。
飯出 あーなるほど(笑)。 資金のこともありますしね。
村上 はい、私は事業性があるか、考えなきゃいけないですから。それを見たら間違いなく100%無理に思えるし、いろんな方に相談しても「やれるわけないよ」と言われていて。実際にお金の制限もあるわけですよね。前経営者の負債総額が10億ぐらいだったのを、私たちが買い取ったのが2億7700万という金額でしたから。
飯出 結構、いい金額ですよね。借り入れになりますよね?
村上 はい。私個人では無理なので。最終的には、声をかけてくれた金融機関と政府系金融機関、村上家の合計3者が出資し、株主として議決権を持つ形で運営していくことに落ち着きました。
飯出 それでも、借金してスタートするわけですから、大きな決断ですよね。
▲豪華な雰囲気の大広間「紫檀の間」。グループの食事処や結婚披露宴などに使われる。
継承を決断させた奥さまの一言
飯出 すごいですね。それは相当すごいと思うけど、そこに踏み切ったいちばんの思いは何だったんですか?
村上 仕事として成り立つかどうかわからないですから、私1人だけずっとバック踏んでたんですけど…。
飯出 それでも、決断したのは?
村上 あるときに女房がポツリと、「両親が旅館をずっと長年やって、曾おばあさんの代から続けてきた中で、旅館から離れてまったく縁もゆかりもなくなってしまったので、両親には何もなくなってしまった」と。我々もそうですけれど。で、「このままもし落合楼をやらなければ、両親は普通に亡くなっていくだけだけど、もし落合楼やっているとすれば旅館の関係者として最後を終わらせることができるかもしれない」。そんなことを女房から言われると、それはもうやんなきゃしょうがねぇな、っていう感じになってしまって(笑)。
飯出 はぁ~、なんか泣かされる話ですねぇ(笑)。それで、引き受けて、ある程度は手を入れたんですか?
村上 玄関が川向こうの7階建ての方を使っていて、こちら側の玄関は50年以上使われていなかった玄関なんですね。春に声をかけていただいて、最終的に決断したのは7月に決断しましたから、譲渡を受けたのが9月1日なので2ヵ月間で構想を練らなければいけなかったんですね。どうやってお客さんをお迎えしようとか、どうやってオペレーションしていこうかっていう。オペレーションを決めたら、どこをどう改装していくのかということを、その2ヵ月で手配まですべて終わらせなければいけなかったので、今考えてみたらどうやってやったのか思い出せないくらい特別なことをしてたんだろうなぁと。
飯出 バタバタっと決まっていったんですね…。
村上 はい。結局、ここの玄関を使ってお迎えをしようというところと、大浴場が昔は混浴だったんですね。左側から男性、右側から女性というカタチで洞窟と天狗の湯 (露天風呂) の先がつながっていて。今は男性と女性で交替してますけれども。それと、タイル風呂の方もかなり変則的なお風呂の造りになっていたので、お風呂の改装もしなきゃいけないねということで。あとは、今は小上がりの旅館になっていますが、絨毯剥がしたらのりで貼り付けられていたので、板の間を再現できなかったんですね。それで結局、絨毯の張り替えとか、最終的に扉とかそういうところぐらいしか替えられずに…。
▲男女交替制のもう1つの浴場「モダンタイル風呂」。外に半露天風呂も併設。
飯出 たった2ヵ月間ですからねぇ。エレベーターは前からあったんですか?
村上 前からありました。ですから、ほとんど2ヵ月間はお掃除だけですね。9月1日に継承して、11月1日にオープンしてますので、2ヵ月間のうち、最初の半月でいったん中の物を全部移動して、1ヵ月で建物もお風呂も簡単にお化粧しなおしたりして、壁を修理したり障子貼り替えたりっていう程度で。水回りは一切触らずに。
飯出 まぁ水回りを触らずに使えたっていうのは、ある意味良かったですね。放置されていたらそうはいかないから。
村上 そうですね。営業されていた翌日から引き受けて改装スタートしましたから。
飯出 へぇ(笑)。
▲一度に10人以上入れる貸切大露天風呂(40分、無料)。利用はフロントで要予約。
継承後「落合楼」2軒の大問題
飯出 その時は向こう (川向こうの鉄筋建ての建物) も営業してたんですか?
村上 そうです。
飯出 それで、村上さんはこっちだけを引き取ったわけでしょ?
村上 そうですね。3年ぐらいは向こう側も借りて使わせてもらえてたんですよ。(川を跨ぐ) 渡り廊下もつながっていたので、お客さんにご利用いただいてたんですけど。
飯出 そうなんですか。
村上 その後、向こうのビルを競売にかけられ、買い取られた東京の方がいらっしゃって、「眠雲閣落合」っていう名前で運営してました。その前は、「湯ヶ島落合楼」っていう名前で運営されていましたので、「落合楼」が2軒(笑)。
飯出 それは、金融機関からお話があったときは向こうとはっきり離れてたんですか?
村上 そうです。
飯出 向こうは、別の人が買ったってことですね?
村上 そうです。向こうはずっと塩漬け状態だったはずが、裁判所の競売物件になって。もともと落合楼っていう名前は、前のオーナーから独占的に僕らが使える形になっていたんですけど、いろいろずるがしこいというか、いろんなことをこじつけて、「落合楼」という名前を自分たちが使えるんだと。実際には前経営者が「落合楼」というのを商標登録されてなかったんですね。
飯出 なるほど…。
村上 そしたら、向こうのビルを買った人が、「落合楼」という名称を商標登録申請してしまっていて。僕らは商標登録をする必要が無いものと思っていたところが、先に商標登録をされてしまうんですよね。それで、裁判沙汰になって。ただし、やっぱり悪いことが出来ないというか、周りの地域のみなさんに「落合楼」というのは前経営者から譲り受けた我々がずっと繋いで営業していっているんだということを、みなさんに署名していただきたいということで署名活動をしたんですね。そしたら周りの皆さんに署名していただけて、向こう側の「湯ヶ島落合楼」という名前で営業していた方々が商道徳に反することをしていると、ようやく皆さんにわかってもらって。そうすると、働いてる地元の人たちも何人かいらっしゃって、自分たちがそういうところで働いているんだということで、そうとう動揺されたそうなんですね。
飯出 それはそうですよね。
村上 それで、先方が泣きを入れてきて「署名活動はやめてください。商標は返すから」ということで。その代わり、「眠雲閣落合楼」という名前だったので、「眠雲閣」と「落合」を使わせてほしいということで、「眠雲閣落合」に。
飯出 まぁ、それもどうかと思いますけどねぇ(笑)。
村上 もう、そのときには、僕らも裁判なんてするの初めてのことですから、いいかげん早く終わってほしいということもあって妥協しちゃったんですよね。
飯出 で、示談で終わりにしたわけですか?
村上 はい。不正競争防止法という法律で、僕らの方から提訴したんですけど。
飯出 ここで営業しているときと同じ時期だったんですか?
村上 「落合楼村上」として営業して3年後ですね。
飯出 あ、3年後に…。
村上 それで、競売で買ったオーナーが営業する半年前くらいに「落合楼」の名前を僕らが使うからあなた方は使えないかもしれないみたいなことを言い始めて…。
飯出 結局、今あれは廃墟?
村上 はい。結局は、立ち行かなくなって破産して廃墟になってしまいましたね。
飯出 それもだいぶ前ですよね?
村上 4年か5年経ちますかね。
飯出 両方の建物で営業しているときはちょっと知ってるんですよ。どうなってるんだろうなと思いながら、そんなことは認識してなかったんですけどね。
村上 もう、タクシーの運転手さんたちも「上の落合楼」、「下の落合楼」とかね(笑)。
飯出 そうですよねぇ。
村上 「落合楼」はうちだけですからって言ったりして。非常に辛い時期でしたね。
老舗を守り続ける矜持
飯出 もともと、ここは金山のお客さんの迎賓館として建てられたお宿ですよね?そのときに「眠雲楼」という名前だったのを、川が落ち合うところなので、山岡鉄舟が「落合楼」という名前を贈ったといういわれは聞いたんですけど。
村上 一番最初の名前は、山岡鉄舟の義理の兄、高橋泥舟 (勝海舟の弟子) が「眠雲楼」という名前をつけてくださったんですね。眠る雲というのは山懐の深いところで幽玄な世界という意味合いとのことですが、まぁそういう場所に旅館が建っているんだよということで。その看板も残っているんですね。
飯出 あーなるほど。
村上 で、それが1874 (明治7) 年創業。それから7年後の1881 (明治14) 年に山岡鉄舟が来て2つの川が落ち合う辺りに建つ宿と詠ったことから、「落合楼」に改名されたと言われてますね。で、最初は「眠雲楼」という3文字だけだったのが、「落合楼」がつくことによって、「眠雲閣落合楼」にしたんですね。
飯出 楼が2つ続くから、それで一方を閣にしたんですね。
村上 はい。「眠雲閣落合楼」の6文字になって2002 (平成14) 年までずっと。
▲今回のインタビューの場所にも利用された、レトロモダンな雰囲気が漂う読書室。
飯出 で、どうですか?いざ、引き受けてみて。
村上 もう、ようやく、よくここまで持ってきたなというぐらいで。
飯出 大変ですよね。維持管理ももちろん大変でしょうけど。お部屋の稼働は15部屋でしょ?そんなに高い宿泊料金じゃないじゃないですか。これだけのレベルの宿にしては。
村上 はい、それでもやらなきゃいけないだろうってことで、スタートしたんですけどね。まぁ、15年よく持たせてもらったですね。
飯出 ですよね。経営は大変でしょうけど、借金がどんどん嵩むわけじゃないんでしょ?
村上 まぁ、そりゃそうですけどね。ただ、「落合楼村上」として営業する前に、周りには改装されたり代替わりした新しい宿が出来ましたし、その後もこの地域は投資が進んでいますので、本来うちも投資をしていかないと陳腐化していくっていうのはあるんですね。なかなかそこまでいけない状況で。
▲食事は椅子席の個室食事処に1品ずつ用意され、ゆっくりと味わうことができる。
湯ヶ島温泉の現状と展望
飯出 今、湯ヶ島温泉は稼働しているのは何軒くらいですか?
村上 旅館組合に入っているので14軒ですね。
飯出 だいぶ減りました?
村上 もう、かなり少ないですね。私が最初にいた頃は20軒くらいあったんですかね。
飯出 この奥の、梶井基次郎ゆかりの「湯川屋」さんはもうやってない?
村上 もうやってないです。私たちが旅館やり始めた頃はやってましたけど。
飯出 あぁ、そうなんですね。
村上 「湯本館」さんと「白壁荘」さんは古いですよね。
飯出 「白壁荘」のご主人は立派な方でしたよね。「湯本館」の名物女将さんももういらっしゃらないでしょ?でも、みんな人手には渡らずにやっているんですね?
村上 はい。「湯本館」さんは、女将さんの姪御さんご夫婦がお入りになってやってらっしゃいます。旦那さんは農協に勤めていた方で、勉強熱心でいらっしゃいますね。「湯本館」を継がれた後は文学に関するいろいろな本を相当読まれていたようですね。
飯出 「白壁荘」は娘さんになるのかしら?
村上 「白壁荘」はご親戚の方が引き継がれているようです。
飯出 村上さんのところは?
村上 うちは、息子が1人います。今、川崎の会社に勤めています。
飯出 おいくつ?
村上 25歳ですね。
飯出 継いでくれそうですか?
村上 まぁ、「いづみ荘」のときから、大女将について回っていたんで、旅館は相当好きだと思いますね。
飯出 あぁ、本当に。
村上 まぁ、ただうちが継げるような旅館かどうかっていうことが、その前にあるんで(笑)。継がせられるような旅館にしてから、継げるようにしないといけないんで。
▲ある日の夕食の前菜。地元の旬の野菜をふんだんに使った繊細な料理に定評がある。
飯出 まだ、まぁ20年くらいはいいですね。
村上 まぁ、まだ25歳ですから、外でいろいろ勉強してから戻ってきてもらって。
飯出 息子さんのお名前はなんておっしゃるの?
村上 恵祐 (けいすけ) といいます。
飯出 まだ、社会に出て何年も経ってないですね。
村上 まだ、3年目くらいですね。
飯出 でも、旅館が嫌いじゃないって思いがあるのなら、引き渡すにはもうちょっと頑張んないといけないですよね。それで、奥さまのご両親はご健在ですか?
村上 おかげさまで元気で。
飯出 あぁ、そうですか。
村上 本当にいつも心配してもらいながら。もう2人とも80歳過ぎですね。でも、伊東から車でこちらまで来て、今日も正月飾りを母がしてくれました。大体、うちの母が飾り物を全部やってくれているんで。
飯出 お住まいは村上さんも伊東なんですか?
村上 今は、もうこの中です。両親だけ伊東です。
飯出 まぁ、頑張ってもらうしかないんですけどねぇ(笑)。
村上 そうです(笑)。
飯出 もう、宝ですからね。この中伊豆では国の登録有形文化財の宿は2軒だけでしょ?修善寺の「新井旅館」とここだけですもんね。
村上 そうですね。
飯出 でも、湯ヶ島は修善寺よりはマシですね。まだ「湯本館」や「白壁荘」、そして「落合楼村上」と、木造の宿が残っていて昔の趣はあるので。「湯川屋」さんがやめちゃったのは残念ですけど。「湯川屋」さんの近くの「世古の湯」(共同湯)はまだあるんですか?
村上 まだあります。
飯出 一般の人も入れてもらえるんですか?
村上 はい。入れます。
飯出 「河鹿の湯」は知られてるんですけど、「世古の湯」は記事にしても悪いかなって気でいるんですけど。
村上 結構、熱いらしいですけど。私は入ったことがないんで。
飯出 そうなんですね。僕は、昔から温泉を仕事にしてきてるんですけど、湯ヶ島っていうと「湯本館」と「湯川屋」は文学ゆかりの宿だったので、結構思い入れはあったんですけどねぇ。
村上 でも今、その「湯川屋」さんは別の方に譲られて新しい方が建物を所有されてますけども、営業はされてないですが、学校の先生じゃないかと思うんですね。なので、文学に関しては協力的なようで、毎年1回、梶井基次郎先生の「檸檬忌」というのをやるときに中を見せていただいたりとか、今でもあるんですね。
飯出 なるほど。我々はこういうお宿は宝だと思うんで、本当に嬉しいです。
村上 そうですね。15年前に出来るかどうかわからないときに、この建物に関わって一生の仕事に出来ることだと。
▲建築の粋と匠の技を見学する館内ツアーが毎朝(10時から約40分間)実施される。
「老舗旅館で結婚披露宴」をトレンドに
飯出 ところで、ここでは結婚式もされているんですか?
村上 はい。そうです。昔からですね、年に数組くらいは声をかけていただいて、披露宴を承っていたんですけれども、ここ最近少し積極的に営業していこうということで、年に6組から7組くらい。
飯出 挙式はどこでするんですか?
村上 様々です。人前結婚式であれば「落合楼」の中で祝膳という形でやりますし、三島大社でやる方もいらっしゃいますし。あとはご自分のご実家の近くの神社で挙式して、バスで移動してここで披露宴をやるという方もいらっしゃいます。
飯出 大体、おいくらくらいで出来るものなんですか?
村上 もう、宿泊費プラスアルファくらいですね。
飯出 大体、皆さんお泊まりになるの?
村上 はい。宿泊のお料理がちょっと豪華になって披露宴用のお食事にすることと、あとは大広間を披露宴会場にセッティングするので、それにプラスアルファいただくくらいなので、どちらかというとお得かもしれないですね。結婚式場でやっても、1人3万から4万かかるのであれば、うちだったら同じくらいで宿泊まで出来ちゃう感じなので。
飯出 今後も、積極的に受け入れていこうという感じですか?
村上 そうですね。2年前くらいにフランス人の新郎と日本人の新婦が来られて、1年くらい前から予約をいただいていたんですけれども。その方々は、新婦のご実家が東京で、東京の神社で挙式を挙げて、渋谷のスクランブル交差点で朝早く全体の集合写真撮って、それでバスで移動してうちに来て、みんなで泊まって披露宴をすると。
飯出 すごいですねぇ。
村上 それがうちのサイトの中でも映像で残ってるんですけれども。
▲大広間「紫檀の間」を会場に行われる結婚披露宴。国際結婚のカップルも利用した。
飯出 積極的に『ゼクシィ』(結婚情報誌) とか、そういうのにも広告を載せてるんですか?
村上 いや、もう正直、広告代は高くて目が飛び出ちゃいます。もう、そういうところに広告を出される施設は、年間20~30件はこなさないと出せないですね。
飯出 あとは、披露宴の料金に上乗せすることになっちゃいますよね。
村上 全然、費用対効果が合わないですね。うちの場合には。どちらかというと、サイトを見ていただける方とか、うちでお世話になっている和装屋さんや写真屋さんであるとか、そういう方々のご紹介とかというのが多いですね。
飯出 そういうときには、応援の人たちを呼ばないと手が回らないですよね?
村上 そうですね。
飯出 普段は何人くらい従業員抱えてるんですか?
村上 従業員はパートさん含めて総勢25名くらいです。
飯出 もし放っておかれたら、リノベーション会社が買収して鉄筋のホテルみたいなの建てちゃいますね。
湯守としての覚悟
村上 最初の「落合楼」やるときに、金融機関も本当に早く再生しなきゃいけないという事情があったのと、普通にビジネスとして売買するというベースでみると、ブラックボックスばっかりだったんですよ。私が判子押した後に話が違うことなんて、いくつもありましたから。
飯出 はぁ。それは、金融機関が隠してたってこと?
村上 隠しているわけではなかったと思いますよ(笑)。ただ、僕はそういうブラックボックスがあるっていうのはわかってはいたんですね。彼らがわからないところもたくさんあったし、間違っているところもあっただろうし。結局、(川向こうからの)渡り廊下を使わせてほしいっていうのも今はクローズになってますし…。
飯出 うーん、なんかやりきれない話ですねぇ。
村上 まぁ、いろいろなことが口約束であったりするところがあって。もうそれは判子押したときに、判子押した以上は自分の責任でやっていこうというスタンスできてたんで、どうなっているんだっていうのは一切言わなかったですけど。
飯出 まぁ、想定内だと。
村上 想定内の範囲でいこうと(笑)。金融機関には一切言わず、どう対処するかに終始してましたね。
飯出 それが、湯守としての覚悟、ということなんですね。
…あとがき…
湯ヶ島といえば、文学ファンには川端康成『伊豆の踊子』の舞台として、また井上靖が5~13歳を過ごしたことで知られる、中伊豆を代表する名湯である。
その当時の湯ヶ島の風物や人々の暮らしぶりは井上靖の自伝的小説『しろばんば』『夏草冬濤』に活写されているが、その小説上ではこの落合楼も『しろばんば』では「渓合楼」、『夏草冬濤』では「伊豆楼」という名前で登場している。湯ヶ島を訪ねる際に一読してから出かければ、湯ヶ島の風景もひと味違ったものとして映じるにちがいない。
国の登録有形文化財の湯宿は各地にあるが、その中でもこの「落合楼村上」は出色の存在といっていい。
宿泊客はすべて国の登録有形文化財の部屋に泊まることができるだけでなく、その歴史を刻んだ建築美と贅沢な空間、料理のクオリティ、風呂の快適さ、堅苦しさを感じさせない居心地の良さ、そして意外に安価に感じる料金設定 (適正なのか?) にも驚かされる。
その多くは村上さんご夫妻およびスタッフの優しい接客と温かい人柄によるものと思われるが、それにしてもこの宿が利潤最優先のリノベーション会社をはじめとする経営者の手に落ちず、縁あって村上さんご夫妻に継承されたことは幸運だったというほかはない。
この一度壊してしまったら二度と造れない大切な温泉財産を守り続けていくには、一人でも多くの人に泊まりにいき、支え続けるサポーターになっていただきたいと切に思う。
(公開日:2018年2月9日)
◆カテゴリー:湯守インタビュー