元ランナーにしてホテルマン、今や塩原温泉郷のエース、その軌跡とは?
塩原温泉郷を箒川の下流から詰めて行くと、最奥の鬼怒川温泉と塩原を結ぶ「日塩もみじライン」沿いにあるのが奥塩原新湯 (あらゆ) 温泉だ。
塩原11湯の中では希少な単純酸性硫黄泉の名湯である。
奥塩原高原ホテルは、その一番手前に瀟洒なたたずまいで立つ。
外観だけでなく、近年は客室も和洋折衷にリニューアルし、リゾートフルな宿に変貌した。
この宿を率いる大塚さんはとびきりのジェントルマン。
その素養は箱根駅伝を駆け抜けた後のホテル勤務によって培われたようだ。
現在、那須塩原市観光局理事として、地域全体の底上げにも力を尽くす、塩原温泉郷のプリンスの今に迫ったインタビュー。
大塚 建一 (おおつか けんいち) /1965 (昭和40) 年4月8日、塩原温泉郷・奥塩原新湯 (あらゆ) 温泉の老舗「峰望閣大黒屋」の長男として生まれる。地元の中学卒業後、黒磯高校で陸上部に所属し、楽しい高校生活を送る。大学は駒澤大学文学部地理学科に進み、大学でも陸上を続けて厳しい練習の日々を送るが、その努力が実って2~4年の3年間箱根駅伝を走る。4年時はキャップテンを務め、箱根の山登りを担当。大学卒業後は8年間、浦安の「ヒルトン東京ベイ」に勤務。さらに旅行会社で添乗と内勤を1年したあと帰郷して家業を継ぐ。17歳年下の聡子夫人、愛嬢陽葵 (ひまり) ちゃんとの3人家族。那須塩原市観光局理事、塩原温泉観光協会副会長、塩原温泉旅館組合と「とちぎ にごり湯の会」の会計などを務める (2020年5月現在)。
古風な宿から今風のリゾートフルな宿に
飯出 まずは、歴史的なことから伺いたいんですが、元々のルーツは元湯温泉にあったんですよね?
大塚 そうです。歴史が古くて宿の名前はわからないんですけど、こっちで小さな宿を始めて、曾々じいさんくらいから「大黒屋」(のちに「峰望閣大黒屋」) の屋号でやってました。
飯出 その「峰望閣大黒屋」はどこにあったんですか?
大塚 場所的には、「山の宿 下藤屋」さんの奧隣りです。
飯出 今、そこのスペースはどうなってるんですか?
大塚 うちが土地を売った業者が、そのあとに新しい宿を建てたんですけど、今は更地になってますね。
飯出 なるほど。で、そもそも何年の創業ですか?
大塚 新湯に来てからですと、江戸末期です。
飯出 元湯温泉が山津波で壊滅したのは?
大塚 1659 (万治2) 年と言われております。
飯出 そのあと、こっち (新湯) に引っ越してきたってことですよね?それが、曾々じいさんくらいの頃というわけなんですね?
大塚 そうです。そして、1974 (昭和54) 年に奥塩原高原ホテルをここに建てました。
飯出 その頃としては、実にモダンな建物ですよね。
大塚 そうですね。うちの叔父が建築士をしていたのでお願いしました。
▲絵になる奥塩原高原ホテルの外観。いかにも高原のリゾートホテルといった雰囲気だ。(写真提供:奥塩原高原ホテル)
17歳下の奥さんと愛娘にメロメロ
飯出 大塚さんは何年生まれですか?
大塚 1965 (昭和40) 年4月8日。お釈迦様と同じです。
飯出 とすると、この宿が建ったのは1974年 (昭和54) 年ですから、大塚少年9歳のときですか。
大塚 そうなりますかね。
飯出 ちなみに、奥さん (聡子さん) は何年生まれなんですか?
大塚 1982 (昭和57) 年。17歳差です(笑)。
飯出 17歳差!? まったく~、もう(笑)。知り合ったのはそもそもどんな?
▲大塚建一・聡子夫妻。写真嫌いの聡子さんを拝み倒して撮った貴重なツーショット。
大塚 ゴルフのコンペです。妻もゴルフをやるので。
飯出 そうなんですか。なんか周り (「とちぎ にごり湯の会」の仲間たち) で気をもんでいるうちに、なんかあっという間にできちゃった、みたいな感じでしたもんね(笑)。
大塚 でも、3年くらいお付き合いはしたんですよ。ただ、発表から子どもができるまでが短期間だったもので(笑)。
飯出 そうだったんですね。周りが心配することはなかった、というわけですね。
大塚 そうかもしれないです(笑)。
飯出 まぁ、良かった良かったって言ってたんですけど(笑)。
大塚 はぁ…(苦笑)。
▲新緑が美しい春たけなわの露天風呂 (男湯)。最初は透明の湯だが、徐々に白濁する。
飯出 兄弟は何人ですか?
大塚 3人です。姉と弟がいます。
飯出 大塚さんは、幼い頃からお宿を継ぐ意志はあったんですか?
大塚 それは、おばあちゃんから洗脳されてましたね(笑)。
飯出 なるほど。おばあちゃんに育てられた感じなんですね。ご両親は旅館の仕事で忙しいから。今のお嬢さん (陽葵=ひまりちゃん) 状態ですね。
大塚 旅館業は、どうしてもそうなりますね。
▲「とちぎ にごり湯の会」の宴席でのひとこま。酒席でも大塚さんはまったく崩れない。
陸上漬けの日々の集大成は箱根駅伝
飯出 それで、中学までは地元ですか?
大塚 塩原中学校です。高校は当時、陸上競技の強かった先生から来ないかと言われて、黒磯高校に行きました。この辺の子は、大田原高校に進むことが多いんですが。
飯出 あ、そうなんですか。陸上は中学からやっていてスカウトされたわけですね。
大塚 ま、そこまでではないんですけど(笑)。大田原高校は男子校で、黒磯高校は共学でしたし。
飯出 あぁ、それもあったわけ?(笑)
大塚 もちろん、たくさんありました(笑)。
飯出 ははは。それで、高校時代はここから通ったんですか?
大塚 いえ、通えないので下宿です。陸上競技を通して青春してました。
▲女湯の大浴場に付設した露天風呂。静かな森に臨み、秋には紅葉が白濁の湯に映える。
飯出 黒磯高校ではインターハイには出たんですか?
大塚 インターハイには出られなかったです。もう、ちょっとだったんですけど。僕は1500m、5000mがメインで、中距離と長距離の間くらいでした。
飯出 まぁ、スピードランナーですね。それで、駒澤大学に引っ張られたんですか?
大塚 そうですね。その頃は今の駒澤大学とは違って、そんなに強くなかったんです。今の大八木監督が1年先輩でした。年齢的には社会人から大学に入っていて9歳も違うので、コーチみたいな感じで、怖かったですね。
飯出 大塚さんは、箱根駅伝には1年から出たんですか?
大塚 いえ、1年時は補欠にも入ることが出来ず、その悔しさをバネにして2~4年で出ることが出来ました。2年は10区でアンカーを走り、結果は総合4位でしたね。3年は4区で平塚から小田原まで走り、そのときは11位でシード権を逃して悔しい思いをしました。4年のときは予選会からで、5区山登りをして確か10位くらいだったかな。
飯出 へぇ。4年のとき、キャプテンだったんでしょ?
大塚 はい。それなりに真面目だったので選ばれたんでしょうね。当時のメンバーには感謝しています。その4~5年後くらいからが駒澤の全盛時代ですね。大八木さんがコーチに入って強くなりました。
飯出 僕は、駅伝が好きで正月はテレビに張り付いているんですよ(笑)。なので、きっと大塚さんは見てますね。
大塚 今思うと、学生時代は正月がないような感じでしたね(笑)。今も家業で忙しく、同じようなもんですけど(笑)。
▲男湯の大浴場。内湯は木造りの湯船で、外に露天風呂が続く。女湯も同様の造りだ。
飯出 そりゃ、そうでしょう。駒澤では学部どこなんですか?
大塚 文学部地理学科です。駒澤は特待生の推薦入学で入りました。
飯出 へぇ。特待生は、授業料免除?
大塚 その年に入学する人数で違うんですけど、私のときは4年間免除でした。まぁ、その分頑張らなければって感じでしたけど。4年間、寮生活でしたね。
飯出 共学だけど、女の子と遊ぶ時間ないでしょ?(笑)
大塚 ないですよ~(笑)。毎日朝・夕練習があるので、走っているのが生活の一部って感じでした。箱根駅伝が終わると、少しだけ休めましたけど。
飯出 で、大学を卒業して、その後は?
大塚 8年間、TDL隣の「ヒルトン東京ベイ」にいました。
飯出 あ、そんなにいたんですか。だから、ホテルマンって感じがするんですね。
▲フロントに立つ大塚さん。ホテル勤務で身につけたスマートさは伊達じゃない。
大塚 その後、「JTBサポートインターナショナル」っていうところに契約社員で入って、そこで添乗と内勤を1年やって戻りました。
飯出 じゃあ、その辺のときにスマートさを身につけたわけですね(笑)。
大塚 いえいえ(笑)。添乗をやってみたかったのと、JTBの内側ってどうなってるのかなっていうのを見たかったので。ちょうど知り合いに誘われて行きました。
飯出 ここは、外観は変わっていないけど、中は相当リニューアルしましたよね? 部屋を和モダンにするなどの大リニューアルしたのは何年前ですか?
大塚 2007 (平成19) 年でしたね。1年くらい、3期に分けてリニューアルしました。
飯出 僕はその頃にもお邪魔しましたが、見違えるほど綺麗になったと思いましたよ。
大塚 はい、がんばりました!(笑)
▲バリアフリーの貸切内湯「もみじの湯」。フロントでの予約制で、50分・1000円。
あれやこれやの役職で多忙の日々
飯出 今は、何か役職には就いてるんですか?
大塚 塩原温泉観光協会の副会長、塩原温泉旅館組合の会計、「とちぎ にごり湯の会」の会計、あとは那須・塩原・板室で作った那須塩原市観光局の理事ですね。いろいろあって大変です。
飯出 まぁ、役は持ち回りですよね(笑)。塩原温泉郷11湯全体として、旅館はどのくらいあるんですか?
大塚 48軒だったかな。少し減ってますね。新湯はいま4軒だけです。
飯出 塩原温泉郷全体としては、インバウンドにはあまり熱心ではないんですか?
大塚 まぁ、ぼちぼちやってます。今までのインバウンドは団体なんですけど、塩原温泉では団体を取れる宿が少ないので、主に個人客を取っていこうということで動いてはいるんですけど。
▲客室は全部で25室。ここはゆったりとしたスペースでくつろげる新館の和洋室。(写真提供:奥塩原高原ホテル)
飯出 こちらはどうですか?
大塚 冬場は中国系のお客さんとかは増えてきました。
飯出 お宿以外の活動は?
大塚 最近は、観光局の理事としての仕事が多いですね。設立当時は那須塩原市の職員が主にやってたんですけど、今は独立して社団法人としてやってます。その方が市から観光予算が取れるので。塩原の発信が多くなり、断然良くなってきていると思います。というのも、一般的に塩原温泉を知っている人が段々少なくなってきて…。
飯出 それは、困りますよねぇ。
大塚 はい。その指標として、「観光経済新聞」の温泉百選のランキングを上げていこうということになって。6年前には40位くらいだったんですけど、現在では19位くらいまで上がってきています。
▲ここも近年リニューアルされた和室。琉球畳がモダンな雰囲気を演出している。
これから手がけて行きたいこと
飯出 大塚さんとしては、ここのお宿はどういう感じにもっていこうと思ってますか?
大塚 今、自分としては、若干考えなくちゃいけない時期だと思っていて。団塊の世代が少なくなり、温泉好きな人が段々少なくなってきているように感じます。団塊の世代と今の若い人とでは、温泉が好きという内容というか、意味合いが違うんですよ。今の若い人はちょっとマニアっぽい。昔はもっとアバウトで、休みが取れたから、ちょっと疲れたから行こうよという感じだったんですけど、今は少しシフトしていかないと、いけないかなと。
飯出 はい、確かに好みとか違ってきてますよね。
大塚 あとは、従業員が採用しづらくなってきていて、いままで夕食は部屋出しを主体にしてたんですけど、去年からは半分レストラン食にシフトしています。
▲庭を眺めながらの食事が楽しみな、フローリングの床にテーブル席のレストラン。
飯出 あ、今までは部屋食中心だったんですね。でももう、全然、レストランで良いと思いますよ。2部制にするとかね。
大塚 次に改装するときは、食事処を増やそうかなと。個室のような感じとか。
飯出 部屋食は運ぶ従業員さんも大変ですが、泊まる側も食事の前後が慌ただしいですよね。泊食分離で、ご飯食べるのは部屋の外で良いと思いますよ。そうですねぇ、あとはバーでも造ったらどうですか?
大塚 以前、お客さんからも言われました(笑)。
飯出 日本酒があんなに揃ってるんですから。あの酒造は親戚でしたっけ?
大塚 そうです。大田原にある「菊の里酒造」というんですが、母の姉、つまり伯母の嫁ぎ先なんです。
飯出 あぁ、そうなんですか。菊の里酒造の「大那」は良いお酒だと思いますね。
大塚 「大那」を知っているなんて通ですね。もう少し品揃え良く、ラインナップを変えていこうと思ってます。
▲大塚さんが集めた栃木県北の銘酒が並ぶ売店。日本酒好きにはたまらない品揃えだ。
飯出 栃木県のお酒を集めてるんですよね?
大塚 そうです。栃木の県北のお酒を集めてます。観光局で、利き酒、巻狩鍋、イチゴとミルク、朝食一品という4つのコンテンツを立ち上げて推進してます。
飯出 へぇ、観光局として動いてるんですか。それは楽しみですね。まぁ、僕的には日本酒の品揃えが良ければ、それでいいですけどね(笑)。
…あとがき…
筆者は「とちぎ にごり湯の会」の公式ガイドブックやポスターを制作させていただいている関係で、大塚さんにはとてもお世話になっている。
なぜかというと、大塚さんは会の会計係。つまり、財布の紐を握っているから(笑)。
大塚さんに初めて会ったときの第一印象は、真面目でシャイで礼儀正しい紳士。
旅館のオヤジという雰囲気は微塵もなく、端正なホテルマンという感じ。
聞けば、大学卒業後の8年間、浦安の「ヒルトン東京ベイ」に勤務していたという。
なるほど、納得。
その印象は、この10数年変わることはない。
毎年、会の総会&懇親会に顔を出しているが、大塚さんの崩れた姿を見たことがない。恐るべし!
そんな大塚さんだが、17歳年下の聡子夫人と愛娘陽葵ちゃんにはメロメロ。
相好を崩しっぱなしの落差がなんとも微笑ましい。
いずれ陽葵ちゃんにもボーイフレンドができる日がやって来る、それを見るのが怖いなぁ、と今から思っているのは筆者ばかりではない(笑)。
(公開日:2020年5月15日)
◆カテゴリー:湯守インタビュー